続きです。
電気は繋がっても水は1ヶ月前後断水したままでした。多くの場所で給水車が来ていましたが、それでは全然足りません。お風呂だって洗濯だってトイレだって水は必要ですから。
それで人々は小学校のプールの水を汲んで運んでいました。それでも風呂になんか入れなかったでしょうけど。ガスも復旧に時間が掛かっていましたし。
私の家は3階建てのRC造りです。給水タンクが有ります。電動ポンプで一階のタンクから屋上のタンクへ水を汲み上げます。だから水の心配は少なかったです。
でも下の階に住んでいる賃借人は水が出るのに驚いていました。「ここは井戸水なのですか」と言って。
私は「タンクに水が貯蔵している。出来るだけ節約してください。トイレも小は流さずにして」と言いました。でもある部屋の人が「ウチの建物は水が出る」と言って、多くの人がやってきて水を配ってタンクの水も無くなっちゃいましたけど。
同じ街に住む弟の家は水道が回復して風呂には入れるようになりましたが、トイレを流せないのは辛いですね。節約して欲しかったな、賃借人たちには。
賃借人の中には小学校に避難したも者もいました。食事と水は供給されていたから、私らも走した方が良かったかも。でも私、やっぱり団体行動が苦手だから駄目だな、やっぱり。
それとテレビもCMは無くなっていました。「ポポポポポポポォーン」と言うヤツばかり流れていましたね。それでも電気が来る前はロウソクで灯りを取ってラジオのみの状況だったので、電気も有り難いと思いました。文明はやっぱり良いですね。
それにしても水や食料、灯油を買うのには苦労しました。ガソリンも貴重なのでクルマも動かせませんし。
でも、私にはバイクがある。ヤマハ・タウンメイトT90と言う名車が。このバイクは新聞配達、郵便配達専用車がベースなので荷物も多く積めます。当時の道路は陥没箇所だらけだったのでクルマは通行できないケースが多かったですが、バイクなら避けられる。これには助かりました。1リットルで35キロ以上走りますし。
其れでポリタンクを積んで、そこら辺をツーラツラと走り、水の供給を受けたり、菓子パン等の食料を買出ししていました。ガスは止まっていたけどカセットガスがある。部屋の中でキャンプしている感じです。それは其れで生活は出来ました。
ガソリンが普通に変えるようになった時、私は津波被害地の現状を見て来よう。目に焼き付けて来ようと考え、亘理から七ヶ浜、塩竃までの海岸線へ。
その時、見たものとは・・・・・・・・・・・、
続く。