諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その2

2017年03月24日 14時22分52秒 | 永井平九郎

続きです。

「永井平九郎は何時も御鍋を背負っている。敵が来るとその御鍋の下に隠れる」と私が小学生の時に読んだ福島県の伝説の本に書かれていました。

「何で何時も鍋を背負っているのか。敵が来ると鍋に身を隠す。それって亀じゃないの。永井平九郎よ、戦わんかい」と永井平九郎に対しての想いはありましたが、鍋を背負う事に何かしらの意味があるのでは無いのか。永井平九郎同様、鍋を背負う人物がいるのではないかと考え調べました。いました、もう一人、鍋を背負う者が。

その鍋を背負う者とは「島の坊」、「とうせん坊」。多分そのモデルは岩手県高松寺の僧「宗元」だと思われます。この三者のストーリーは三者三様ですけど。

この話で一番浸透しているのは「まんが 日本昔話」でテレビでも放映された「とうせん坊」でしょう。でも先ずはオリジナルと思われる「宗元」の話を最初に語りたいと思います。

 宗元は坊さんなのに何故か力持ちになりたいと寺の観音様に祈願。満願の日に口の中に玉が入る夢を見て力を授かる。宗元はその力を使い悪戯三昧。人々からは鬼宗元と呼ばれ恐れられる。

春の祭り日、宗元は境内の桜の大木を渾身の力で捻じ曲げ、その幹に腰を下ろして何気なくすましていた。人々は桜の大木が倒れていると思い、桜の木の枝を折ろうと群がって来た。宗元は頃合いを見計らって腰を上げる。桜の大木は跳ね上がり、その勢いで多くの人々が死傷した。人々はその行為を罵る。宗元は嫌気が刺して村から出て行き、能登の動石の山に登り「とうせん坊」と名乗った。

しかし、そこでも悪戯・悪行を繰り返す。そこも追われ越前三国の浦へ。そこでも悪行を重ねる。村人はこのままには出来ないと「とうせん坊」の殺害を決意する。

そして四月の花見の日、人々は「とうせん坊」を東尋坊の先端に呼び出し宴会を開催する。しこたま酒を飲み酔い潰れる「とうせん坊」。そこをすかさず人々は「とうせん坊」を抱え込み、海へ投げ捨てようとする。

「とうせん坊」は「計ったな」と叫びながら両腕に若者を二人づつ抱え、海へと落ちて行った。

それ以来、毎年4月の花見の季節になると必ず時化となった。人々は「とうせん坊」の祟りと考え、その季節の時化を「とうせん坊風」と呼ぶようになった。

この宗元の「とうせん坊」の話は更に脚本が加わります。テレビで放映された「まんが日本昔ばなし」ではこうなります。

北上川上流の寺に「とうせん坊」と言う坊主がいた。赤ん坊の頃、大きな鍋の中に捨てられて寺で育てられた。大柄だか知的レベルが低く、何時も大鍋を背負っていて、和尚や坊主仲間に「うすのろ」、「でくの坊」と苛められていた。そこで力が欲しいと観音堂に篭り祈祷を続けた。

満願の日に夢を見た。観音様が現れ手毬を突いていた。その手毬が「とうせん坊」の手に渡る。「とうせん坊」は腹が減っていたので、その手毬を食べた。そして目が覚めたら百人力を手にしていた。

「とうせん坊」は早速その力を試したくなり奉納相撲に参加。手加減が判らず対戦相手を次々と殺してしまった。それで人々から「人殺し」と罵られ山に篭った。

しかし怒りが収まらない村の若者達が山に篭った「とうせん坊」の住処を見つけ、その場を荒し、「とうせん坊」が大事にしていた御鍋の中にウンコをして帰った。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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