諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その4

2017年03月28日 08時39分57秒 | 永井平九郎

続きます。

ここで一旦キーワードを上げます。

島の坊、とうせん坊、宗元、桐紋の大鍋、大鍋を背負っている、観音様へ力を願い祈祷、超人的な力、乱暴者、よそ者、悪戯、殺した、一本歯の高下駄、嫌われた、大切な大鍋がウンコで汚された、東尋坊、大島、時化・嵐、逃げて来た、逃げ回った、酒を飲んだ、騙された、海に投げられ殺された、そして漁業の神として祀られた、アンバサマと呼ばれた。

ここで最初の注目点は「島の坊、とうせん坊」である宗元と桐紋です。

桐紋と言うと豊臣秀吉の家紋で有名ですが、天皇家のもう一つの家紋でもあります。菊紋に次いで尊い家紋です。天皇家から賜る最高の名誉の家紋です。

そして桐は鳳凰の止まり木とされる最高の樹木。そこに宗元、つまり宗氏を合わせて検索して出ました、関連が。

対馬市の神社の神紋に桐紋が集中しているのですが、これは対馬市を統治していた宗氏の家紋です。宗氏の庇護を受けていたから対馬の神社の神紋は桐なのです。

ここでピンと来ました。宗元の正体が。

宗氏は平知盛の血筋です。平家は元々桐紋を使用していた。だから宗氏の家紋は桐紋だった。そして対馬を統治していた。

詳しくは以前記事にした「蝦夷の心と安東水軍」を読んで頂きたいのですが、宗氏が統治している時に蒙古が襲来。対馬島や壱岐島は襲われて壊滅状態になった。そこに青森県の十三湊から海流に乗ってわざわざ安東水軍がやって来て、壱岐島や対馬の人々を救出。十三湊に連れて来たとされているのです。

太宰治の本名は「津島」ですが、これは対馬から連れて来られた人々のルーツだからとされます。北東北で津島姓、壱岐姓が多いのもその為です。つまり対馬(津島)だから「島の坊、とうせん坊」と呼ばれたのではないでしょうか。

私、宗元も対馬から逃げて来た宗氏、或いはその家系だと考えます。だから桐紋の大鍋を持っていた。家宝として大切にしていたと思うのです。

しかしながら宗元は対馬から逃げて来た余所者。差別されて育った。馬鹿にされていた。それで力を欲した。だから対馬で熱心に信仰されていた観音様に祈祷したのではないでしょうか。

次に鍋を背負っていた理由ですが、これは二つの意味があります。

一つは力の象徴。大鍋を背負っていても屋根から屋根に飛び回った。これは超人と言えます。更に一本歯の高下駄を合わせて考えると修験者と考えられる。

東北では修験道の信仰が低下してから、修験者の悪行が問題となっていました。田沢湖の辰子姫伝説の本来のストーリーは、辰子姫が法力を持った修験者に言い寄られた困り果てた内容です。宗元も悪行を重ねる修験者と捉えられた可能性があります。

そしてもう一つの意味は濡れ衣。鍋を背負う意味は濡れ衣を意味するのです。

濡れ衣は冤罪と言う意味ではありません。奪衣婆が死者の衣類を剥ぎ懸衣爺に渡し木の枝にかけ、そのしなり具合で罪の重さを量る。つまり濡れている衣類は本来の罪より重く見積もられるという意味です。犯した罪より重く見られると言う事です。

宗元は罪を犯したが、それには理由がある。本当は情状酌量の余地があると言う事なのだと思います。

それと海に投げられ殺されたから漁業の神になった。それは祟りを起こして貰いたくなくて、神として祀ったと考えられます。

それプラス対馬の人間だから海流に詳しかった。航行の知識があった。それが漁業の神に繋がったと思いますね。

「島の坊」を祀った大杉神社ですが、3.11の大津波に流されて現在は社は無いそうです。

山田町の津波被害は甚大でしたからね。瀬織津姫神社も流されちゃいましたが、地震も津波も恐ろしい。本当に油断は大敵。油断して甘く見て亡くなった人が多かった。兎に角、甘く見ないことだと思います。

話を大杉神社に戻します。

実は「島の坊」は大島に連れて来られて置いてきぼりをされて餓死したとの話もあるのですが、大杉神社では網場大杉様として祀られています。

漁業の神だから網場は判るのですが、何で大杉なのかが判りません。しょうがないからアンバサマ総本宮の茨城県の大杉神社を調べてみました。

 

続く。

 

コメント (4)
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