諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

やはり由豆佐売神社には瀬織津姫が祀られていた。その3

2019年08月29日 14時35分56秒 | 瀬織津姫
続きです。

汗を噴出しながら、急な石段を登る。結構な高さがある。早くも疲労困憊。

拝殿に参拝する。私とは相性は悪い筈。受代苦と言えるのか。

三島溝咋姫は大山祇神の孫に当たる。三島に住んでいた。そこに出雲から逃れてきたのか恵比寿様がやってきた。少彦名命・事代主と同一人物かは不明だが、何代目かの恵比寿様なのは確かだと想う。そして二神は結婚した。

多分、政略結婚なのだろう。

大山祇神の勢力と少彦名尊の勢力が三島の領地を争った。そして少彦名命の勢力が勝利したと私は考えている。

しかし、それも束の間、今度は神武天皇の勢力が襲って来た。三島を征服した。それで溝咋姫と恵比寿様の子である五十鈴姫が神武天皇の下に嫁いだ。

そう考えると、三島溝咋姫の苦しみは如何ばかりかと想う。記紀の中でも一番苦しみと悲しみ、そして不条理さを味わった女神。それが三島溝咋姫なのではないだろうか。

当然、天皇家の家系に繋がる私との相性が良い訳が無い。でも家系では繋がっている。不思議な感じがする。

祖父の大山祇神の別名は和多志神。相模湾と想われる走水の海で、日本武尊の行く手を阻んだ渡神と同神と判断して良い。

更に日本武尊は足柄山で近寄って来た白鹿の目を野蒜で打ち叩き殺した。その白鹿は足柄山之坂本神とされるが、どちらも境界線の神。大山祇神と同神、若しくはその系統なのは間違いない。日本武尊が戦っていて相手は、大山祇神の勢力と考えて良い。

私が先日、西会津の大山祇神社に参拝した後、鶴岡市の由豆佐売神社に参拝したのはそんな理由があります。

今年の正月の禊旅行で知ったのですが、私の田舎の山林が閼伽井嶽の参道に面していた。そしてその中間点に石碑の大山祇神社が鎮座していた。

閼伽井嶽と水石山は私の亡くなった伯父が林業をしていた山。そこは本来は、大山祇神の山。

神道の神を仏教・修験道が貶めて、山腹に落としたと考えられる。その参道に面した山林を私の家が所有している。まるで必然の様に。

大山祇神は或る意味、鬼渡神の大元の神。相変わらず鬼渡神とは因縁がある。私は祀り慄く立場。参拝して許しを請わねばならない。そう思っての今回の禊旅となります。

話を由豆佐売神社に戻します。

由豆佐売神社の境内は木々に囲まれ太陽光が届かず薄暗い。夕方の暗さだ。

左右に目をくれず急な長い石段を登り、真っ先に拝殿に向かう。拝殿は思っていた以上に朽ちていたた。手入れが行き届いていない。神職がいない社は最終的にはこんな風になるのだろう。

丁重な謝意の参拝を行う。そしてその裏と斜め上にある二つの社にも登り参拝。石段に戻る。

石段を慎重に手すりをつたって降りる。途中、初めて見る乳銀杏を眺める。仙台にも乳銀杏は有るが、ここまで氷柱の様に樹皮が垂れ下がるのには驚く。

そして次に数本の石柱を見る。一本の少々大き目の石柱をチョイ小さ目な石柱で囲っている。

中央の石柱には祓戸社とあった。祓戸四神を祀っている。つまり祓戸神筆頭の瀬織津姫を祀っている。

そうだろうと思っていた。それは伊豆佐売神社に参拝した時から分かっていた。三島溝咋姫と瀬織津姫が同神とまでは断言できないが、どちらかがどちらかのモデルになったのは間違いないだろう。

まさか祓戸社に鎮座して祀っているとは思わなかったが・・・・・。


続く。

コメント (2)
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