続きです。
大山祇神社は鳥追観音の先。或いは奥と言った方が適切でしょうか。
何と申しましょうか、鳥追観音と大山祇神社は対の関係のように思えます。幹と枝、そう言ったら分かり易いでしょうか。
勿論、大山祇神社が幹で鳥追観音が枝なのですけど、こんな事言ったら鳥追観音の住職に怒られるかな。
でも、日本の仏教はインドから渡って来たリアル仏教ではない。神道の仏教的解釈。だからその本質に日本の神道の神々が存在する。それは間違いないところです。
つべこべ言っている間に大山祇神社に到着。誰も居ない。私しか居ない。
大きなお土産屋さんがあるのだが、店員さんがゼロ。やっぱりこんなに暑いと神社の参拝客も居ないみたい。
考えてみたら今日は盆。盆の日にこんな山奥の神社に参拝に来る私の方がおかしいのか。
どこからだか分からないが、脇道から山頂にもある大山祇神社に登れるみたい。
不動瀧、弥作の瀧とあり、石に彫られた道祖神を眺めながら奥の院へ。
ここの奥の院は失礼ながら盆栽サイズの社みたいですが、崖を攀じ登るシーンもあるとか。穢れて重い体重の私には無理みたいだ。
大山祇神社御本社まで4km。そこから奥の院までは崖を700mとる登るとか。しかも崖から落ちた人がいるとか居ないとか。
いゃー、無理無理。熱中症で死んじゃうよ。尋常じゃない暑さだし。
私は清く御本社、奥の院までの登頂は諦めました。今回は麓の拝殿での参拝とします。
ところで、この西会津・大山祇神社のテーマと言うか、触れ込みなのですが「三年続けて参拝すれば、一生に一度はなじょな願いも聞きなさる山の神様」だそうです。うーん、これって金華山黄金山神社と同じでは。
否、違うか。黄金山神社は確か「三年続けて参拝すれば、一生お金に困る事は無い」だったと思う。
私、三年連続で参拝しましたがな。お金に困っていますがな。これっ、どう言う事?
私の場合、穢れた存在だから、命が続いているのがご利益なのかも知れん。
考えてみたら金華山の山頂には大綿祇神、こちらの山頂には当然、大山祇神が祀られている。
海と山は違えど、間違いなく同神である。どちらも日本根本の神道の神。ここまで来たら、来年も来ようか。季節を変えて。
そして次回は少なくても御本社までは登ろう。その為には体重と言う穢れを落とさなくてはならない。出来れば65キロまで落としたいなぁー。そうすれば多少は楽に登れる筈。来年の5月頃に来て見ようかなぁー。
そんなこんな想いながら、麓の拝殿を参拝。住職が一人、店番っと言うかお守り売り場??で鎮座なされていた。この暑いのにご苦労様です。
それにしても鳥追観音では若い女性たちが来ていたのに、この大山祇神社は私独り。何か宮司が気の毒になる。
こんな山奥でこの暑いのにエアコンもない神社で御神籤やお守りを売る。参拝客も少ないのに。立派だし、大変だし、辛いなぁー。
でも、それが宮司の務め。それが神を鎮座させる宮司の役割。それを立派にこなしている。頭が下がる想い。ニコニコ若い女性と話をしていた鳥追観音の住職よりも尊いよ。そう想い、感謝の念をテレパシーで送る。
そう言えばこの宮司とは8年前、ちょっとだけお話した。あの頃は震災の遭った年。将来が真っ暗だった。今はチョッとだけ日が差しているが、まだまだ暗い。やっぱり3年連続参拝を続けてみるか。
そう想いながら御神籤と願い事のお札??を買う。それぞれ100円。
御神籤は小吉。的確に今の私の現状を解き明かしている。感服仕った。近くの御神籤結び場に結ぶ。
横2.5cm、縦20cm程度のお札??には感謝とお詫び、そして小さな願いを書いた。今日はこれで十分だ。良い参拝が出来た。これで良いのだ。
そう想いながら西会津の大山祇神社を後にしました。
ではでは。
大山祇神社は鳥追観音の先。或いは奥と言った方が適切でしょうか。
何と申しましょうか、鳥追観音と大山祇神社は対の関係のように思えます。幹と枝、そう言ったら分かり易いでしょうか。
勿論、大山祇神社が幹で鳥追観音が枝なのですけど、こんな事言ったら鳥追観音の住職に怒られるかな。
でも、日本の仏教はインドから渡って来たリアル仏教ではない。神道の仏教的解釈。だからその本質に日本の神道の神々が存在する。それは間違いないところです。
つべこべ言っている間に大山祇神社に到着。誰も居ない。私しか居ない。
大きなお土産屋さんがあるのだが、店員さんがゼロ。やっぱりこんなに暑いと神社の参拝客も居ないみたい。
考えてみたら今日は盆。盆の日にこんな山奥の神社に参拝に来る私の方がおかしいのか。
どこからだか分からないが、脇道から山頂にもある大山祇神社に登れるみたい。
不動瀧、弥作の瀧とあり、石に彫られた道祖神を眺めながら奥の院へ。
ここの奥の院は失礼ながら盆栽サイズの社みたいですが、崖を攀じ登るシーンもあるとか。穢れて重い体重の私には無理みたいだ。
大山祇神社御本社まで4km。そこから奥の院までは崖を700mとる登るとか。しかも崖から落ちた人がいるとか居ないとか。
いゃー、無理無理。熱中症で死んじゃうよ。尋常じゃない暑さだし。
私は清く御本社、奥の院までの登頂は諦めました。今回は麓の拝殿での参拝とします。
ところで、この西会津・大山祇神社のテーマと言うか、触れ込みなのですが「三年続けて参拝すれば、一生に一度はなじょな願いも聞きなさる山の神様」だそうです。うーん、これって金華山黄金山神社と同じでは。
否、違うか。黄金山神社は確か「三年続けて参拝すれば、一生お金に困る事は無い」だったと思う。
私、三年連続で参拝しましたがな。お金に困っていますがな。これっ、どう言う事?
私の場合、穢れた存在だから、命が続いているのがご利益なのかも知れん。
考えてみたら金華山の山頂には大綿祇神、こちらの山頂には当然、大山祇神が祀られている。
海と山は違えど、間違いなく同神である。どちらも日本根本の神道の神。ここまで来たら、来年も来ようか。季節を変えて。
そして次回は少なくても御本社までは登ろう。その為には体重と言う穢れを落とさなくてはならない。出来れば65キロまで落としたいなぁー。そうすれば多少は楽に登れる筈。来年の5月頃に来て見ようかなぁー。
そんなこんな想いながら、麓の拝殿を参拝。住職が一人、店番っと言うかお守り売り場??で鎮座なされていた。この暑いのにご苦労様です。
それにしても鳥追観音では若い女性たちが来ていたのに、この大山祇神社は私独り。何か宮司が気の毒になる。
こんな山奥でこの暑いのにエアコンもない神社で御神籤やお守りを売る。参拝客も少ないのに。立派だし、大変だし、辛いなぁー。
でも、それが宮司の務め。それが神を鎮座させる宮司の役割。それを立派にこなしている。頭が下がる想い。ニコニコ若い女性と話をしていた鳥追観音の住職よりも尊いよ。そう想い、感謝の念をテレパシーで送る。
そう言えばこの宮司とは8年前、ちょっとだけお話した。あの頃は震災の遭った年。将来が真っ暗だった。今はチョッとだけ日が差しているが、まだまだ暗い。やっぱり3年連続参拝を続けてみるか。
そう想いながら御神籤と願い事のお札??を買う。それぞれ100円。
御神籤は小吉。的確に今の私の現状を解き明かしている。感服仕った。近くの御神籤結び場に結ぶ。
横2.5cm、縦20cm程度のお札??には感謝とお詫び、そして小さな願いを書いた。今日はこれで十分だ。良い参拝が出来た。これで良いのだ。
そう想いながら西会津の大山祇神社を後にしました。
ではでは。