諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

三島由紀夫は瀬織津姫を演じたてのではあるまいか。その3

2019年09月30日 13時35分54秒 | 瀬織津姫
続きます。

老いは穢れ。体力も知能も見た目も劣化する。それは穢れの何物でもない。

人類は古代から老いと言う穢れと戦って来た。

秦の始皇帝は徐福に不老長寿の薬草を探させた。

キリスト教は蘇りや永遠の命をエサに信者を増やした。仏教の極楽浄土もその考えに近い。しかし、誰一人老いを防いだ者はいない。

いるとしたら熊野権現である五衰殿くらいか。

「五衰」とは老いを示している。五衰殿は千手観音を信仰し、千手観音に匹敵する美しさを手に入れた。殺されても復活した。神にもなった。でも、それは仏教の考え。人々を仏教に帰依させる為のセールストークに近い。

長寿だった者はいる。永井直勝の叔父の永田徳本は118歳まで生きた。三島由紀夫の先祖だ。

永田徳本は医聖。武田信虎・信玄親子の典医だった。武田家が滅亡してから牛の背に揺られ、病人に施しの医療をした。金を取ったとしても16文だけ。だから16文先生として慕われた。

甲斐で薬として葡萄を栽培し、ワインを最初に造ったとも言われている。徳を施した人生。だからこそ118歳まで生きたのではないのか。

三島由紀夫もその位の事は考えたと想いますが、老いはやはり避けられない。

老いは不治の病。老いの進行を防ぐ方法は無い。あるとしたら自死しかない。自死ならば自分の命と引き換えに、老いを止める事が出来る。穢れを止めれる。

安達ケ原の鬼婆の岩手は、老いた上に自分の娘を殺した。究極の穢れを帯びた。そこに白真弓観音が現れ、岩手を矢で射抜いて殺した。殺すことで岩手の穢れを祓った。殺された事で岩手の苦しみ・悲しみは救われた。

殺す事は祓い清め。老いを防ぐには死しかない。

私も即身仏の死に方を考えた事がありますが、自死をするのであれば、自分の死を有意義にしたい。人々の役に立ちたい。自分の死で人々を救いたい。そんな想いが三島由紀夫にはあったのではないか。

三島由紀夫が神道と接していた事実があります。

三島由紀夫は奈良県三輪山に登った。大神神社の摂社である狭井神社の前で「清明」を感じだ。その感じた場所に「清明 三島由紀夫」と彫られて石碑が置かれた。それは何を意味するのか。

狭井神社には三輪神荒魂が祀られている。三輪神は大物主である。その大物主の荒魂とは何一体誰なのか。

私には思い浮かぶ神がいます。その神の名は大物忌主。


つづく。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする