続きです。
さて、母方の墓を探す。昨年の盆は割と簡単に見つかったのだが、また分からなくなった。大体、この辺なのは分かっているのだが。
よく山で遭難する者がいるが、墓場で何度も遭難??する訳にはいかん。
否、山は本来墓である。霊場、死者の国なのである。だから遭難するのだ。
そして墓場も霊場。山と同じ死者の国。だから目的の墓が分からなくなってしまうのではないか。
何度も墓を確認し、20分以上探して母方の墓を見つける。結構なストレス。やはり母方の家系には歓迎されていない様だ。
ここでも花と線香を手向け、跪き無心で頭を下げる。今日の目的はこれで終了。
そう言えば、この龍雲寺には「洟をたらした神」の作者である、「吉野せい」の墓もある。
私、「洟をたらした神」は架空の小説だと思っていたのですが、完全に自分の半生を振り返ったノンフェクションでした。しかも、私と文体が似ている。
小名浜の裕福な家庭に育った「吉野せい」が、詩人の夫と結婚。この好間で開墾の日々を過ごした。夫は詩集の制作だけに生きて、開墾の仕事を手伝わない。開墾の仕事で自分は書くことが出来ない。働きっぱなしの人生。
更には梨花と名付けた娘を亡くす。花の名前は夭折しやすい。それを嘆いていた。そして70代で夫は死亡。友人の草野心平の勧めで小説を書き出す。76歳で大宅壮一ノンフェクション賞を受賞し注目を浴びる。78歳で死去。
仕事をしない夫を恨んでいた。貧困の生活を嘆いていた。娘を失い自分を責めていた。その憎しみ・苦しみ・辛さを文章にぶつけた。魂の文章と言える。
書く事で自分の穢れを祓った。恨んでいた夫と同じ墓に入ったと言う事は、そう言う事なのだと思う。
「吉野せい」の夫は三野混沌と言うらしいが、本名は違うだろうけど「混沌」なんて名前を付けたら何も上手くいかない。不幸を呼び寄せる。ふざけた最低な名前だ。その禍に「吉野せい」は巻き込まれたのだと思う。
何か、私と似ている。娘の名前と死を悔やんでいるところも。夫を恨んでいるところも(私は独身だけど)。
でも、夫よりも文才があった。たった数年で賞をとり、その小説は映画にもなった。それで自分の穢れを自分で祓い昇華した。間に合った。怨霊にならずに間に合ったのだろうなぁー。
「線香でも手向けるか」。否、どこに墓があるのか分からん。大体、母方の墓を探すのでさえ大変だったのだ。止めて置こう。帰ろう。
続く。