諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

今年初めて声を交わした人。【曹洞宗洞菊山 龍雲寺にて】その3

2021年01月13日 10時31分07秒 | 旅行
続きです。

目的は果たし、寺門??をくぐり駐車場に向かいます。其の時、声が・・・・。

「こんにちは。お爺さんをお参りに来ました」。

見たら腰を曲げた小さなお婆さんだった。

私は何と返答して良いのか分からず、「それは、それは」と深くお辞儀をしただけ。そして寺門??をくぐるお婆さんを見送る。

何で私に声をかけたのだろう。声をかけられ易いのは、私のメリットでもありだメリットでもあるのだが。

お婆さんの年齢は90歳を越えている筈。もう直ぐお迎えが来る。それが分かっていて墓参りをするってどんな感じなのだろう。

私は結婚した事もないので、長年連れ添った伴侶を亡くした時の心情が今一分からない。

正月早々、夫のお墓にお参りをする。それだけ夫が好きだったのだろう。

考えたら私、本当に人を好きになった事などない。直ぐに疑ってしまう。だから結婚しなかった。

愛する者に裏切られるなら、初めから一人の方が幸せだと思っている。そんな私がもし90歳以上生きてしまったら、何を頼りに生きて行けば良いのだろう。

90歳なのである。もう、お金も要らない。名誉も要らん。何にも要らん。欲しい物が無い。欲が無くなって生きるのは、案外、辛い事なのでは。

私も極端に言えば欲しいものがない。独りで居るのが本当に落ち着く。

事実、仙台に帰って来て、また禍と向き合う生活に戻ったが、早くも鬱病が酷くなっている。

龍雲寺の周りは家が少々点在しているだけ。お婆さんは近所に住んでいるのだろうけど、あの年齢で歩いて来るのは辛い筈。付き添いが無いところを見ると、1人暮らしなのだろう。最後は私もああなるのであろうな。

でも、お婆さんには愛していた夫との思い出が在る。それに比べ、私には辛い思い出しかない。

辛い想い出を思いだし、腹立ち悔やみながら生きるって本当に辛い。そんな残りの人生に、何のメリットがあるのか。

あのお婆さんは人生の幸せを掴み取った勝者なのだ。そして私は何も掴められなかった敗者。

仮に莫大な財産を築いたとしても、あのお婆さんの幸せには足元にも及ばない敗者。

それが人生と言うものではないのか。


続く。


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