続きです。
目的は果たし、寺門??をくぐり駐車場に向かいます。其の時、声が・・・・。
「こんにちは。お爺さんをお参りに来ました」。
見たら腰を曲げた小さなお婆さんだった。
私は何と返答して良いのか分からず、「それは、それは」と深くお辞儀をしただけ。そして寺門??をくぐるお婆さんを見送る。
何で私に声をかけたのだろう。声をかけられ易いのは、私のメリットでもありだメリットでもあるのだが。
お婆さんの年齢は90歳を越えている筈。もう直ぐお迎えが来る。それが分かっていて墓参りをするってどんな感じなのだろう。
私は結婚した事もないので、長年連れ添った伴侶を亡くした時の心情が今一分からない。
正月早々、夫のお墓にお参りをする。それだけ夫が好きだったのだろう。
考えたら私、本当に人を好きになった事などない。直ぐに疑ってしまう。だから結婚しなかった。
愛する者に裏切られるなら、初めから一人の方が幸せだと思っている。そんな私がもし90歳以上生きてしまったら、何を頼りに生きて行けば良いのだろう。
90歳なのである。もう、お金も要らない。名誉も要らん。何にも要らん。欲しい物が無い。欲が無くなって生きるのは、案外、辛い事なのでは。
私も極端に言えば欲しいものがない。独りで居るのが本当に落ち着く。
事実、仙台に帰って来て、また禍と向き合う生活に戻ったが、早くも鬱病が酷くなっている。
龍雲寺の周りは家が少々点在しているだけ。お婆さんは近所に住んでいるのだろうけど、あの年齢で歩いて来るのは辛い筈。付き添いが無いところを見ると、1人暮らしなのだろう。最後は私もああなるのであろうな。
でも、お婆さんには愛していた夫との思い出が在る。それに比べ、私には辛い思い出しかない。
辛い想い出を思いだし、腹立ち悔やみながら生きるって本当に辛い。そんな残りの人生に、何のメリットがあるのか。
あのお婆さんは人生の幸せを掴み取った勝者なのだ。そして私は何も掴められなかった敗者。
仮に莫大な財産を築いたとしても、あのお婆さんの幸せには足元にも及ばない敗者。
それが人生と言うものではないのか。
続く。