諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

死ぬのが分かっているのに頑張ったり悩んだり。何か空しい。

2021年07月30日 21時49分49秒 | 人生
あっー、鬱病である。心が辛い。

あっー、独りになりたい。もう全て投げ出したい。何もかも嫌になった。あっー。

でも、人間って不思議なもんで、全てにおいて悪くなるのは少ない。

現に私、鬱病が高じて食欲がなくなり、つい最近まで88キロあった体重が82キロまで下がっている。多分、血糖値も下がっていると思う。健康になっているのである。

でもなぁー、心がこんなに辛いのに身体が健康になってもなぁー。

また親父がとんでもないことをやった。多分、数百万円の損害だ。何でこのバカは何度も何度もバカを繰り返すのだろうか。

実は40年ほど前、親父の母親、つまり祖母に親父の悪質さを告げた事があった。

祖母にとって親父は子の中で一番愛していた存在だったと思う。事故死した祖父と顔がそっくりだし。

不思議な話だが祖母の命日と親父の誕生日は同じ〇月〇日。こんな偶然、中々ないと思う。

私の発言に祖母は悲しみの表情を示した。亡くなった従兄の弟は、私を咎めだ。しかし、親父は私にとって禍以外の何物でもない。今も昔も。禍は何時までも禍だ。

否、私以外でも父親の存在は従兄と従妹の死に繋がった。私に限らず禍を振り撒く。もしかしたら、祖父の事故死も親父が関わっているのではないかと勘繰ってしまう。

母の認知症は私のせいだと父は責める。

そう言えば母の母、つまり母方の祖母の元に、父方の亡くなった従兄と共に尋ねだ事がある。祖母は幼稚園児が見る絵本を読んでいた。認知症だった。母方は認知症の家系だ。

あの時は不思議な感覚に陥った。この空間は黄泉の世界ではないのか。囲炉裏のある土間が黄色に輝いていた。

その1年後、祖母と従兄はこの世を去った。あの空間は死への入り口だった。私だけが残された。置いてきぼりを食った感じ。そんなに死は悲しいものではないと感じた。

この世で辛いことがあると死が羨ましくなる。死を考えると気が楽になる。死にたい、死にたいと呟くと心が楽になる。はぁー、達観してしまったなぁー、私は。

私は何のために生きているのか。よくよく考えた。

変な話だが上手に生きる為だ。今一上手く表現できないが、上手く生きる為に知識を集めて生きて来た。それが私の人生だった気がする。

でも、生きる為の知識は、禍を巻き散らす人物にの前では無力。知識なんて吹き飛ばされてしまうんだよなぁー。

認知症になって知識が吹き飛んでしまったら、どうなるのだろうか。

今日、母に「私は誰だ」と尋ねだ。母は「お前だ」と答えた。「お前って誰だ」と更に尋ねる。母は「▽▽▽だ」と弟の名前を発した。

知識が無くなると悩みも無くなるのだろうなぁー。知識と言うより記憶かな。記憶が出来なければ悩みも忘れてしまう。認知症になると自殺する人はいなくなるのではないかなぁー。

やっぱり何事も全部が不幸になる訳ではない。

うーん、私は何を考えていたのだろう。どうせ死ぬのだし、愛する対象もいないのだから、損したって別に良いか。そんなに人生って素晴らしいものではないし。

死ぬのが分かっていて頑張って生きるのって、考えてみたら凄いことだな。必死にならなければ生きられない。それって幸せなのかなぁー。空しくないのかなぁー。


ではでは。








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