仙台市に流れる七北田川。伊達家はこの川を京都の鴨川に見立てているみたいです。
以前、鹽竈神社には賀茂神社と貴船神社が鎮座していました。それを鴨川に倣って七北田川中流に賀茂神社、その上流に貴船神社を移しています。仙台を京都みたいにしたかったのかどうかは分かりませんが。
さて、何故か賀茂神社に参拝したくなりました。数年前にも参拝し境内で文庫本をを読み読み缶コーヒーを飲んでいた。良い気持ちだった。至福だった。宮司さんには不審に思われ声をかけられちゃいましたが・・・・・。
あの時の気持ちを味わいたい。良い気持ちになりたい。穢れを祓いたい。
私にとって神社は温泉みたいなものです。不謹慎な発言ですが、浄化できる場が神社なのです。温泉に入っている感じで身体から疲れが取れる。心が軽くなる。鬱病が治る感じがする。
そう、神社は昔から心の病を癒す場所だった。病院っと言ったら変だけど、人が生きる為に必要な場所。生活に必要な場所。「神社=生き方」。そんな感じがしています。
3月13日の今日、賀茂神社にバイクを走らせ、着いたのは午後3時過ぎ。肌寒い。神社の前にある自動販売機でドトールの缶コーヒーを購入し、神社の駐車場にバイクを止める。
人は参拝を終えて帰る若いカップルだけ。私は八咫烏を祀る社、下賀茂神社、上賀茂神社の順に丁重に参拝した。私の心の穢れが取れる様にとお願いした。
お神籤を引くために社務所に向かう。70代の女性がお神籤の隣の料金箱からお金を回収していた。私は暫し待って100円玉を入れる。
あれっ、お神籤がチョコットとかない。まっ、それも良いかとお神籤を引いた。
珍しい事に大吉だった。しかし「神の教」では私の心境を的確に言い当てていた。
「過ぎた繰り言とりこし苦労、神の授けし身を破る」。
その意味は「取り返しのつかぬ過去の事を、繰り返し思い悩んだり、定かでは無い将来の事を案じ患うは、唯心を痛め身を損なうだけの無益な事である。今日は唯今日の務めを、朗らかに一生懸命尽くし、明日は明日の務めに精を出す。日々神様の御心に寄り添い、明るく正しい心で暮らす事が肝要であり、禍も転じて幸いとなる唯一つの正道である」と書かれてあった。
本当に神様はいるのだな。私の心をここまで正確に悟っているとは驚愕するしかなかった。
私の鬱病は過去を悔やみ悩み、心を自らの手で絞めつけいるのが原因だ。本当にこの「神の教」の通りだ。
私はこのお神籤を持ち帰えった。辛くなったら読み返す為に。何か生きられる感じがする。
今日は良い日だった。心が清められた。
ではでは。