続きです。
二柱神社には境外社も存在します。境外社と言いうのは神社の境内の外でその神社が管理している神社の事です。
まっ、宮司が存在しない小さな神社で、「代わりに管理してくんち」と言う感じで管理を頼まれるケースが多いみたいです。兼務社とも言われてます。
この境外社の中に石留神社があります。七北田川の直ぐ側です。ここの祭神は武烈天皇だとの話が伝わっています。
武烈天皇は10歳で天皇に就任。18歳で崩御しています。正しい政務をしたとの話もありますが、ローマのネロ皇帝やキリギュラ皇帝みたいに残酷な性格をしていたとの伝承もあります。私は暗殺されたと考えています。次の継体天皇は別の系統の天皇の血筋ですし。
更に武烈天皇の側近の狩野と言う者がいて、宮城県の栗駒山まで逃げて来た、或いは追放されたとされています。狩野英孝の先祖です。そして武烈天皇を祀る櫻田山神社を建立しています。
神社に祀られると言う事は、酷いことをされた、極論、暗殺されて怨霊となり祟りを起こす事を防ぐ意味合いも考えられます。
「怨霊には武神、仏教、乱暴者」と何度か私、発言しておりますが、櫻田山神社には最もメジャーな武神である応神天皇も配神として祀られています。武烈天皇を抑える為に配神として祀っていると思えます。
以上の理由から武烈天皇は暗殺されたと私は考えております。
石留神社の社名ですが、その昔、七北田川は冠川と呼ばれていました。
志波彦神が川を白馬に乗って渡っていたら、馬が川石で足を滑らせて転倒。志波彦神が被っていた冠が川に流されてしまった。それで冠川と呼ばれる様になったのです。
冠を流してしまった志波彦神は激怒し、配下の神々に命じて川石を全て川から引き揚げた。その石置場だった場所が現在の石留神社の場所との事です。だから石留神社と呼ばれて言います。
っと言う事は、武烈天皇は志波彦神の配下の神なのか。その点は何とも言えませんが、蝦夷の神である志波彦神を信仰していた。蝦夷の存在を考慮していた。それで暗殺された。そんな風にも考えられますね。難しいですけど。
この伝承で言える事は、冠川、現在の七北田川は志波彦神の川であった。川は境界線。三途の川でも分る通り、この世のとあの世との境界線とも考えられていた。
朝廷側は蝦夷を攻めた時、戦死した兵士を七北田川に流したとされています。
以前、仙台藩の処刑場は広瀬川の評定河原にありましたが、処刑した遺体が川石に引っ掛かり付近の住民から苦情が来ていた。何せ5000人以上(5600人の説有り)も処刑して流していたので、とんでもない状態だったと思います。
それで処刑場を七北田川に移した。七北田川は川石が非常に少なく、遺体が流れやすい。
これは蝦夷の時代に川石を引き上げたのは遺体が引っかからず流れやすい為に行った。
七北田川は三途の川そのもの。それだけに信仰の地とされた。私はそう考えております。
続く。