私、以前から速読には不信感を感じていました。
何か文章を斜め読みしているみたいですが、本当に文章を把握して読んでいるのか。ちゃんと文章と知識が頭に入るのか。
算盤のフラッシュ暗算と言う神業が出来る人がいるのだから、1ページ数秒で読める人がいてもおかしくはないのだが、今一信じられなかったんですよねぇー。
それでね、気になって例の無料のセミナーに行って来たのであります。速読の講座があったので。
セミナーでは講習生は私を含めて8人。何時もより多い感じです。っと思ったら一人仕込みがおりました。客席に座っていたが、男のアシスタントだった。
講師は40代の女性。以前は学校の国語の先生をしていたみたいです。最初は東京で。結婚後は旦那の実家の南相馬市で。何でも東日本大震災で戻って来た様です。
どうもフランチャイズと思われる速読の塾を経営しているのか、講師だけなのかは分かりませんが、仙台で月謝を取って速読を教えているそうです。
彼女の話ですが、読む行為は「見る+分かる」の繰り返し。その速度アップが速読なのだそうです。
脳は全体の10%も使っていない。読む行為は大抵は無言の音読で読んでいるが、それは左脳の2万個を使っているに過ぎない。速読は視読で右脳の1億2千万個を使っている。左脳の6000倍の脳を使っているのだとか。
つまり文章をイメージ化しながら本を読む。記憶と照合しながら読む。右脳を活性化しながら読む。把握ではなく察知して読むのだそうです。
変な運動もさせられました。顔の両脇に人刺し指を立て、それを顔を動かさずに横目にして見る。それを左右やる。
うーん、何で首を動かしてはダメなのだろ。そっちの方が楽だけど、それだと速読にならないのかな。
テレビで速読を取り上げられた動画も見せられました。
速読が出来ればバッティングセンターで160キロの速球を打てるようになる。
それには打つ前に本をペラペラと捲って、目に速度を慣れさせれば打てるようになるそうです。実際に動画では速読講師の女性が160キロの球を打ててました。
説明が難しいのですが、「きゃりーぱみゅばみゅ」を「きゃりー」だけで「きゃりーぱみゅぱみゅ」だと察知して読む。
160キロの速球も把握して打つのでは遅い。察知して打つから160キロの速球に対応して打てると言う事です。
っと言う事は「きゃりーぱみゅぱみゅ」を知らないと速読は不可能となる。
この世の中、知らないことがいっぱいある。否、知らないことの方が多い。
知りたいから本を読むのではないか。速読出来る本は読む前から分かっている本じゃないとダメと言う事なのか。あらゆる知識を得ないと速読は不可能ではないのか。
それと重大な疑問が浮かびました。
実は私、本来は左利きです。文字は右手で書きますが、指でモノを書くのであれば両手で出来ます。野球は左投、左打。卓球、バトミントン、ボクシング等々は両手で出来ます。
またまた実は幼稚園の時、渡された小学1年の国語の本を最初から最後までその場で暗記できました。それが右利きに直されたら、物覚えがすこぶる悪くなったのです。
どういうことかと言うと左利きは右脳を使う、右利きは左脳を使う。右利きにされて右脳を使わなくなって頭が悪くなったと言うことです。
しかし、アメリカの研究によると左利きの人は右利きの人よりも平均で10歳も寿命が短いのだとか。っと言う事は速読をすると寿命が短くなるのではないか。
そう思って質問しようと思ったが、彼女は速読塾の生徒を集める為に、このセミナーの講師をしている。ここでそんな質問したら彼女の商売の妨げとなる。心優しい私はその質問は取り下げた。
しかし、どうしても聞きたい事があった。速読は「見る、分かる」のスビートアップ化だと言うなら、分からない場合はどうなるのか。分からないのであればその場で止まってしまうのではないか。
それで私は質問した。「例えば大河ドラマの鎌倉殿の13人などでは役者の表情でその意味を考えさせたり、暈したりする演出をしています。布石としてラストの結果に繋げる為です。本でも読んでいる者に考えて貰う箇所や、布石として暈している箇所がある。本は読む、分かるで完結するのであれば、考えなくて良いのですか。分からない時はどうするのですか。分からなくても前に進むのですか」と聞いた。
その私の疑問に対し女性速読講師は「その手の本はゆっくり読みます。速読は出来る本と出来ない本があります」と。
なんじゃそりゃ。
私は究極のHSPなのである。考えるモンスターなのである。
1つの事で幾つもの答えを考えるのである。考えたいから本を読むのである。読みながら作者と対話しているのである。
時には「それは間違っているぞ」と作者に対し無言のクレームを入れたりするのである。それが読書の楽しみだと思っているのである。
それで実感した。速読は本を読む楽しさを捨てた知識のみの接種なのだと。
食事で言うなら味わって食べるのではなく、ただ単に栄養とカロリーを採る行為に過ぎない。ニンニク注射みたいなものか。それって本の作者に大変失礼な行為ではないのか。
速読では作者の真意を理解するのは不可能である。それなら速読は読書としてて成立しないのではないか。それなら速読など本好きの私には意味はない。
本はゆっくりと味わって、作者と対話して真意を確かめながら読むから楽しいのではないか。速読は本の楽しみを台無しにするだけではないのか。
そうであるなら、私は速読など出来なくて一向にかまわん。
どうも私の読書生活において速度は不要の様だ。楽しめない読書などしたくない。
帰宅してて速読をネット検索したら、速読は事実上不可能であると発言する意見が目立った。
私もそう思う。速読はスビリチュアルレベルの眉唾ものに思えた。
ではでは。