諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

人の命を預かる怖さ。【常磐山元自動車学校津波控訴編】 その2

2015年01月20日 12時13分35秒 | 東日本大震災

続きます。

ここからが本題です。常磐山元自動車学校です。津波での被害者は死者32人、行方不明者は7人となっています(私が調べたところですが・・・・・・)。

そのうち生徒25人の遺族が自動車学校を相手取って控訴。19億6900万円の損害賠償を請求し、裁判所から満額に近い19億1000万円の支払い命令がおりました。

決め手は消防車が避難を呼びかけていのに、呼びかけに応じず避難しなかった事です。うーん、考えさせられますね。

山元町は仙南の港町です。港と言っても大変小規模。そして民家は少なく広大な平地に田んぼがあるだけの町。津波から逃れる為の4階建て以上の建物も無いし(多分)、山も少ない(多分)。逃げる場所が少ない町なのです。これは難しいです。

私は以前、同じタイトルで「七十七銀行女川支店編」、「大川小学校編」を書きましたが、これらの場合は近年??に津波が何度も到来している南三陸に近い。だから津波の到来を誰もが予見出来ます。

しかし、山元町は仙南。福島県の県境に近い町です。だから津波のイメージが無い。津波のハザードマップにも入っていない。津波が来た事があるなんて知れ渡っていない。これでは「逃げなきゃ」と思う人は少ないと思います。

それと不幸な事に自動車学校の校長が不在だった。大川小学校のケースも校長が不在でしたが、トップがいない組織は脆いです。誰も責任は取りたくない。自分の主張が間違っていて責任を取らされるなんてたまったものではない。故にナンバー2以下は何も判断出来なかった可能性があると思いますね。

それで19億1000万円の支払い命令となれば、七十七銀行女川支店のケースや大川小学校、そして石巻市の日和幼稚園バスのケースも有罪になると思います。山元自動車学校のケースに比べれば、津波の到来は予見しやすいですので。

私、思うのです。この裁判の一番の責任は行政にあるのではないかと。確かに6メートルの防潮堤がありましたが、過去に発生していた大津波を住民に積極的に知らせていなかった。それが一番の原因の様に思います。

仙台には東北大学があります。地震や津波の研究もしていた。過去の大地震も大津波も把握していた筈です。その情報を住民に強く知らせていなかったと言うのは、間違いなく行政の怠慢だと思います。

損害賠償を請求すべき相手は行政です。っとは言っても行政が非を認めて損害賠償したとしても、その賠償金は税金から出る訳です。これでは全然責任の追及にはならないですね。

宮城県の公務員の給与は、県民の平均賃金を大幅に上回ります。私は行政に携わる公務員全員のサラリーからその賠償金は支払う冪だと思います。

勿論、責任は現在の行政に携わる公務員だけに在るのではないです。OBにも当然あります。OBからも徴収すべきだと思います。

例えば「福祉、福祉」と叫んで宮城県を経済破綻水準に落とし、にっちもさっちもいかなくなり、厚顔無恥にも全てを投げ出し東京都庁選挙に討って出たあの元知事からは根こそぎ取るべきです。貧乏な宮城県の予算から都知事もビックリの退職金(1億5000万円とか)を取っていきましたからね。

罰が当たったのか白血病になったみたいですが、返して然るべきです。あんな裏切り行為をしたのだから。

まっ、それは兎も角、山元自動車学校は19億円の損害賠償を払えないと思います。そして最終判決で裁判が確定したら、損害賠償ラッシュになると思われます。どうするのでしょう。

勿論、命を預かっている仕事をしている者で何らかの非があるなら責任は取るべきだと思います。しかし、知らなかった。分からなかった。判断が付かなかったで全部責任を負わせられるのは酷な部分はあると思います。

それ故、行政にはもっとしっかり仕事をして欲しいです。

怠慢は間違いなく罪ですから。

 

ではでは。

 

 

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人の命を預かる怖さ。【常磐山元自動車学校津波控訴編】 その1

2015年01月18日 09時51分08秒 | 東日本大震災

私、歴史通を気取っていましたが、3.11の震災を経験して本当は故郷の福島県、そして現在住んでいる宮城県の歴史について、何も知らなかったのだと痛感しました。

一番は国道6号線です。津波は6号線ギリギリで止まったのですが、過去の津波に対応して造られた古道が国道6号線だったと言う事。

この6号線に沿って古墳が存在するのですが、これは古代の人は津波を避けて生活していた事を示していたのです。仙台からいわき市まで6号線は何度往復したか判りませんが、宮城県も福島県も先ずは津波ありきの土地だったと言えます。

神社仏閣も津波に侵食されない場所に鎮座してました。津波での甚大な被害は、昔からの記録を忘れてしまった事が一番の原因だったと、つくづく思いましたわ。

そしてこれは最近知ったのですが、宮城県の海岸線には何故か「釜」と字が付く地名が多い。確か十一面観音がゆり上げられたと言われる「閖上(ゆりあげ)」にも「釜」の字の地名があります。何故なのか。

私、考えもしなかったのですが今から約400前、1611年12月に慶長三陸地震が発生。3.11の大津波と同規模の津波が仙台平野にも発生していたのです。

今から1100年前の貞観地震による津波から、3.11の東日本大震災は1000年に一度の大震災とか言われてましたが、何の事はない、400年前にも大津波が発生し仙台平野の湾岸・海岸線にも来て多大な被害をだしていた。これ、仙台に住んでいる人でどれだけが知っていたでしょうか。多分、1000人に1人も知らなかったと思います。

そして当時の仙台藩初代藩主・伊達政宗は、慶長津波で海岸線の商業・農業を断念。津波の影響が少ない塩の生産のみを許していた。その塩を生産時に使われる塩釜から、「釜」の地名が残ったと言う事です。

それにしても不思議です。1100年前の貞観の大津波なら記録が余り残っていなくてもそれほど不思議ではありませんが、たった??400年前の慶長の大津波の記録、もしくは記憶が浸透していなかったなんて。しかも伊達政宗の時代です。あの独眼龍政宗ですよ。

伊達政宗に関する著書は多くあります。伊達政宗の慶長津波での政策はしっかりと記録に残っている筈です。それなのに私を含め仙台市民の殆どが知らなかったなんてチョット信じられません。何故広めなかったのか。知らしめなかったのか。

これ、まさかとは思いますが、仙台平野の海岸に大津波が来ていたと言う事を知られては困る人達がいて、その人達が影の運動を起こして400年前に大津波が来ていた事をタブー視していた。そして何らかの圧力をかけていたのではないでしょうか。

仮にそうだとして誰が圧力をかけていたのか。それは当然海岸線の地主が一番疑わしいです。

土地は財産です。自分の土地に過去、津波が何度も来ているなんて知れ渡ったら土地の価値は大暴落です。誰だって自分の財産の価値が落ちるのは嫌ですから、知れ渡るのを阻止していた可能性は高いと思いますね。

そして宮城県、仙台市の行政も困る筈です。400年前にも大津波が来ていたなんて知れたら、宮城県や杜の都・仙台市のイメージはガタ落ちです。

恥部を隠すのがお役所です。だから行政も慶長大津波に付いては語ってこなかったのではないでしょうか。

今から約35年前にも宮城県沖地震がありましたが、この時は運良く津波は来なかった。ただそれだけの事だった。30年前後の周期で大地震が発生する宮城県です。大津波もそれに合わせ発生する可能性が十分にある。それは知られたくないと言う意思があったように思えます。

仮に慶長大津波が東日本大震災規模の大津波と同じ規模だと仙台市民が知っていたなら、津波の被害が甚大だった荒浜の隣町である荒井に今度開通する地下鉄東西線の駅なんか造らなかった。造れなかった。もしかしたら地下鉄東西線も造られなかった可能性もあると思います。

震災を体験して行政に隠したいとする考えがあったと、どうしても思ってしまいます。

 

続く。

 

 

 

 

 

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鬼渡神との因縁。【仙台・大法寺編】 その2

2015年01月16日 10時31分01秒 | 神道

続きです。ここからが本題です。

この大法寺にも鬼渡神が存在してました。何とお寺の敷地内に何故か塩竈神社が鎮座していたのです。

以前、「塩竈神社の地主神」のお題でブログを書きましたが、塩竈神社祀られる本来の神は志波彦神、つまり阿須波神だと私は考えています。そして阿須波神は鬼渡神。私の親父が選んだ墓地も鬼渡神との因縁があったのです。

何故、大法寺の境内に塩竈神社が鎮座していたのか。

大法寺の開基は1608年。私、思うのですが、塩竈神社はその前からこの地に鎮座していたと思います。

大法寺の開基した場所である北山は、多くの寺院が集中している土地です。そして山は古来の霊場。北山なだらかですが元々は起伏のある山であり、縄文時代からの霊場だった。故にお寺が集まって来たと思います。

宮城県神社庁に登録してある塩竈神社は案外少なく4社のみです。多分、大法寺の塩竈神社は神社庁の登録からもれている社と思われます。

まっ、それはどうでも良いのですが、奥州一宮・塩竈神社は塩竈神社のの総本山です。それなのに宮城県に塩竈神社は神社庁認定で4社しかない。

実は塩竈神社が一番多く鎮座している場所は、四国の香川県と我が故郷・福島県です。共に19社鎮座しています。

そして60社あるとされる鬼渡系の神社は福島県に集中している。その理由は幾つかありますが、この点も「塩竈神社=鬼渡神」を示すものと言えます。

ところで、私も死んだら大法寺の墓に入るのか。陰陽五行では私は「木」、私の親父は「金」。私は親父に切られる存在。そして私は「金太郎(鉞を持っているし、名前に金が入るから金)」や「桃太郎(桃も金)」、そしてその手下の「犬・猿・雉(全部が金)」に退治される「鬼(鬼は木であり、冬も意味する)」でもある。仲の悪い親父と一緒の墓に入るのはチョット躊躇しますね。

本来、墓は一人一墓です。現在は「○○家の墓」として家族一緒に埋められますが、それは墓相的に良くない。更に独身で家督を止めた者は同じ墓に入るべきではない。同じ寺に違う墓所を買い求め、そこに埋めるべきとの事です。

そうなるとまたまたお金が掛かりますね。これは困ります。どうしたら良いでしょう。

「地獄の沙汰も金次第」と言いますが、死ぬのにもお金が掛かりますわねぇー。家系は甥がいるのでそんなに心配はしてませんが、縄文時代は墓は山だった訳です。

私は墓石はいらない。山に埋めてもらえば十分だと思っているのですが、どんなもんなのでしょうね。

死んでからも墓相を心配をしなければならないのは矛盾していると思いますし、一体墓って何なのでしょう。

こんなことでも悩まければならないなんて、人間、生きるも死ぬのも大変だと思いましたわ。

いやいやいやいやいやですわね。

 

ではでは。

 

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鬼渡神との因縁。【仙台・大法寺編】 その1

2015年01月13日 20時39分24秒 | 神道

私と鬼渡神との因縁。それは現在住んでいる家の氏神が鬼渡神(岩切・八坂神社境内社 冠川神社〈祭神・志波彦神〉)であったり、私の店舗での氏神が元々は鬼渡神(二柱神社・仁和多利大権現)だったり、従兄弟が事故で亡くなった場所近辺にも鬼渡神(仁渡神社〈祭神・水分神〉)だったりです。

そして極めつけと言いますか、私を神道に引き付けた切欠である私の故郷・福島県いわき市三和町の永井神社(主祭神・住吉三神)。この永井神社が元々は鬼渡神社と呼ばれていただったりです。

だったり、だったりなのです。そしてまたまただったりを発見してしまいました。まっ、チョット聞いてやって下さい。

話は今回も私の親父です。今から約5年前、私の親父は日本人男性の平均寿命の年齢に到達し、そろそろ自分の墓を探さねばならぬと思っていたのです。

っとは言っても、ここは仙台。曹洞宗の地です。お寺と言ったら曹洞宗。そして我が家は福島県の平家の家系。浄土宗となります。仙台は浄土宗にとってアウエーの地。本当に浄土宗のお寺の墓地は少ないのです。

私は墓地なんて公営で十分。浄土宗のお坊さんを呼んで来てお経を上げて貰えばそれで十分と考えていたのですが、親父は違いました。変にこだわりを持っており、意外にも「浄土宗のお寺の墓地でなければならない」との信念があったのです。

そしてその日は来ました。何と新聞に「浄土宗のお寺の墓地販売」のチラシが。仙台市北山にある浄土宗「円光山 大法寺」のチラシが入っていたのです。

私の親父は直ぐに飛び付きました。そして母と私を連れて分譲墓地を見に行ったんです。

正直言って私は微妙でした。墓地の分譲価格は百数十万円。それにしては墓地はびっくりするほど小さい。「こんなに狭いのに」と思いましたわ。

それでも角地の墓地があり、「宅地も墓地も角地が一番」と思い込んでいる私ら家族は「チャンスなのかなぁー」と思いはしましたが、何とその角地の隣に古い墓石が山積みにされたのです。これは流石に不気味です。

よくよく考えてみて今回分譲されている墓地は、この山積みになっている墓石を引っこ抜いて造ったのではないでしようか。そんな墓地を買って墓を建てて良いものなのか。何か死んで墓に入っても祟られそうで、「大丈夫なのかなぁー」と思いましたわ。

この大法寺は割と仙台市内の中心部に近い場所にあるので、仕方がないのかもしれませんが、「これだっ」って言う気持にはなれませんでした。

これだったらもっと田舎の場所で、大きな敷地の霊園の方が断然良いと私は思うのですが、私の親父は平均寿命を突破し、切羽詰っていたのでしょうね。自分でさっさと決めちゃいました。角地じゃない墓地を。

角地は古い墓石が恨めしそうでしたし、同じ値段でしたが墓相の点で問題だと考え諦めました。

まっ、妥協で決めてしまったと言うところでしょうね。

 

続く。

 

 

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不治の病が発覚。

2015年01月10日 15時51分15秒 | 出来事

昨年の年末頃から背中が痛かったんです。背中の中央のチョット右側が痛い。寝て起きたら背中が痛かった。だから寝違いだと思ってたんですが、2週間経っても全然治らない。かなり痛い。背中がギックリ腰になった感じです。痛さに耐えかねてとうとう病院に行ったんです。

病院は整形外科がメインの中堅総合病院。実は私の従兄弟に肺癌で亡くなった者がいたので、総合病院の方が良いと思ったのです。背中の痛みは肺癌の可能性がありますからね。

思った通り、医者からは喫煙しているか聞かれました。手で痛い背中を押されても痛みは無い。筋肉が痛いのではなく、背中の中が痛いのです。そしてその部位は肺。私も多少覚悟はしてました。

私はタバコは吸いませんが、バイクに乗る機会が多い。排ガスは人より吸っています。もしかしたらと思っていたのです。

整形外科医はレントゲンを取り、内科医の往診を受ける様に言います。やはり癌の可能性があると医者も判断した様です。

そしてレントゲンの結果、不治の病が発覚しました。内科医の診断では内蔵に問題は無かったのですが、背骨からかなり棘が出ていると言われたんです。簡単に言うと骨が磨り減って尖ってきている。だから痛みが出ているとの事です。一言で言うなら、老化現象と言う事です。

私は子供の頃から新聞配達してたんで、背筋力は高校三年当時230キロもありました。230キロは相撲の力士の平均よりも上です。それだけ背骨を酷使して来たのです。そして今まで続けていた仕事も力が必要な仕事です。無理を続けてきた結果と言う事です。

医者は老化現象だからもう治らないと言いました。なるだけ重い物は持たない様にとも。

そうすると今の仕事を続けるのは無理かも知れない。これには少々困りましたね。

それでも肺癌よりは大分マシです。更に病院では車椅子の患者が大勢いました。この人達に比べれば、私の痛みなど軽い部類ではあります。しょうがないのだと思いましたわ。

私は割と若く見られます。6歳年下の弟と並ぶと、100人中100人は私が弟と思う筈です。お世辞かも知れませんが、30代前半??でも通用するとも言われたりもします。

しかし、体はやっぱり50歳。ガタが来ていた。人生の折り返しはとうに過ぎていたと言う事です。

私はまだまだ気持ちが子供で24歳程度の感覚でいたのですが、やっぱり歳は取っていたのですね。誰も避けられない事とは言え、ちょっとシンミリしちゃいました。

薬はシップと強い飲み薬。それを飲むための胃薬、そして座薬も渡されましたが、座薬まで渡されるとは思いませんでした。

はぁー、何時までも若くはいられない。歳を取るってのは辛いもんですわね。特に何も達成せず生きてきた私に取っては。

はぁーあ。

 

ではでは。

 

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