諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

次の大河ドラマは細川幽斎を希望する。その9

2016年05月20日 15時54分15秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画

今度こそ終わります。

 天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに東軍の主力部隊である38000の秀忠軍が到着しなかった。3000の兵で守る真田昌幸・信繁親子の上田城を攻めきれなかった。

徳川秀忠は東軍の本来の総大将だった。その総大将の軍が戦いに参加しない。これで裏切りを持ち掛けられていた武将達は行動を起こすでしょうか。

これ、私が小早川秀秋でも悩みます。そそまま西軍の将として裏切らずに戦う。もしくは様子見を続ける。そして最終的には優勢の方に付くのではないでしょうか。

西軍の見せ掛けの総大将だった毛利輝元も東軍に向かっていった可能性が高いと思います。多くの将が裏切りを決行しなかったら、私は西軍が有利だと考えます。

家康は隠居です。確実に勝てる戦だったから総大将を秀忠に譲った。本来は秀忠の戦いのフォロー程度で見物するつもりだった。それが自分が総大将にならざる負えなくなった。家康もあせったと思います。38000もの兵を持たせた主力の秀忠軍が参陣しないなんて考えてもいなかったでしょうから。

東軍西軍の武将全員から秀忠は駄目な武将とレッテルを貼られた訳です。秀忠に次を任せるのも心配になります。私が家康でしたら発狂するでしょうね。ホントに秀忠は馬鹿息子だと思いますよ。

しかし、石田三成もポカを犯した。寄せ集めではありましたが裏切る可能性が低い15000人の兵が幽斎の田辺城攻略に手間取り参陣しなかった。これは石田三成も馬鹿です。

東軍の本来の総大将である秀忠も馬鹿。西軍の実質の総大将である三成も馬鹿。どったも馬鹿なのです。こんな戦いあったもんじゃないです。

代わりに隠居の家康が東軍の総大将になった。更に幽斎が15000の兵を足止めした。それで何が何だか判らなくなっていた関ヶ原の戦いに勝てた。

つまり関ヶ原の戦いの功労者は裏切った小早川秀秋よりも幽斎です。家康もそう考えた筈です。

そして関ヶ原の戦いの後、家康と幽斎は大阪城で会う。

家康は「老齢の身でありながら60日も城を持ち堪えて頂き感謝しますぞ。お陰で三成に勝つ事ができ申した。望みの領地があればどこでも与えまするぞ」と最大級の賛辞を幽斎に送ります。

幽斎は息子・忠興は十分な領地を頂いている。自分は天皇の命とは言え、最後は開城してしまった。自分は武将ではない。意地は見せたが戦では敗れたと考え、「そんな事はないです。最後は開城してしまったのです。こんな老いぼれのことなどお忘れください」と恩賞を辞退します。

幽斎が15000の兵を足止めしていなければ戦いは多分負けていた。そう考えている家康は引き下がりません。「領地でなければ他に希望は御座らんか。何でも良いので言ってくだされ」と。

幽斎は少々悩み「15000の包囲軍の中には自分の歌道の弟子や慕ってくれている者が多数おります。その者達が手を抜いて戦っていた。石田側の情報を知らせてくれた。それで長く持ち応えられました。私の手柄ではありません。出来ますればその者達の罪を許していただき、領地を安堵していただきたい」と頼みます。

田辺城の戦いは激戦でした。それは家康も判っています。それを自分の手柄ではないからと恩賞を辞退し、敵方に回らざる負えなかった弟子や自分を慕ってくれる者達の罪を許せと言われた。家康は驚きました。「こんな人間がいるのか」と。そして恩賞で動かぬ者の信頼を得てこそ天下は保てない。信長や秀吉を思い浮かべながら、幽斎の願いを叶え、それでも足りぬと3000石の領地も与えます。

幽斎の息子・忠興は福岡県の小倉に39万石を与えられた。そして領地の規模からすれば広大な小倉城を建築。それを謀反の気があるのではと密告してきた者がいます。同じ九州の黒田如水です。この如水、頭が良いし、それを自慢する傾向があります。だから秀吉に警戒された。嫌られた。

勿論、関ヶ原の戦いの中、如水が九州全体を手に入れ関ヶ原の勝者と天下を争うつもりであった事は家康も感ずいています。

家康は「今のわしならばどんな大きな城でも攻め落とせるわ」と笑って答えます。幽斎と如水では信頼の度合いが違います。細川家が現在まで続いているのも幽斎への信頼が続いていたからだと私は考えて今いす。

最後になりますが、私が幽斎の最後の弟子ではないかと考えている者に永井直勝がいます。10代前の先祖は風呂場で源義朝を討った長田忠興。その血から卑怯者家系と言われていた。自分も先祖を恨んでいました。

直勝は図書番頭だった経歴があり、家康の命で室町時代の古式・典礼について幽斎に取材し、室町家式三巻を纏め上げます。この時に幽斎の生き方に共鳴したと私は考えています。永井家が幕末まで続いたのも幽斎の教えがあったからだと思いますね。

幽斎は息子・忠興と共に小倉に向かえば大大名の大殿の立場です。しかしそれを拒み、丹波から京都に移り住みます。そして3000石の石高で散歩や歌を楽しみながら、悠々自適の暮らしを送ったそうです。

以前、子孫の細川護煕元総理が政界を引退し、鎌倉の20坪の家で一人壷を焼いて暮らしていましたが、これは幽斎を気取ったのでしょう。幽斎の生き方を手本にしての行動だと思いました。

人間、欲をかくと運から見放される。信頼も得られなくなる。多くの者が敵に回る。今の舛添要一東京都知事を見ていてつくづくそう思います。幽斎の生き方は人殺しの家系の私としては、教科書とすべき人だと思います。

長々と書いて来ましたがどうでしょう。NKHの大河ドラマで取り上げても最後まで波乱のストーリーが続いて視聴率も取れそうでしょ。信長、秀吉、家康と仕えてた。そして同じ足利義輝の家臣だった明智光秀、松永久秀の人生との対比。生き方の違い。どうですか。ドラマになるでしょ。

私は是非、見てみたいですねぇー。幽斎役をこなせる役者はいないかも知れませんが。

 

ではでは。

 

 

 

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次の大河ドラマは細川幽斎を希望する。その8

2016年05月19日 09時40分36秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画

そろそろ最後にしますね。

話を変えます。幽斎と正反対の文化人大名と言えば松永久秀です。幽斎と共に足利義輝に仕えていたが、とこから連れてきたのか足利義栄を立て足利幕府を支配する為に主君の義輝を殺しています。戦略の智もあります。幽斎とは似ていて非なる者です。

不思議な縁で幽斎と松永は敵同士だったのに双方とも信長に仕えます。松永久秀は主君・義輝を殺し、その仲間だった三好家を滅ぼし、奈良の大仏殿も焼いた。魔王信長さえも稀代の悪人と言わしめています。

その松永は信長を二度裏切っていますが信長は許してます。松永の文化人としての資質、共通の敵がいたからだと思われますが、魔王と呼ばれた自分よりも悪人の松永に不思議な共感を持っていたのかも知れません。

そして松永の信長に対する3度目の裏切り。謀反を企み自分の勢力を集め信貴山城に篭城します。信長は長男・信忠に命じ数万の兵で信貴山城の松永久秀を攻めます。そして落城間近となり信忠は使者を立て「平蜘蛛の釜を差し出せば罪を許すから投降せよ」と。

信長は蜘蛛の鋳物が取り付けられ、湯が沸くと蜘蛛が生きているように這い回る様に見えるこの平蜘蛛の壷をどうしても欲しかったのは間違いないと思いますが、あの信長が3度も許すもんでしょうか。

松永も流石に3度目は許す筈がない。平蜘蛛の釜を取り上げてから自分を殺すと思ったのでしょう。平蜘蛛の釜を持ち天守閣に登り、信忠軍が見ている前で釜を粉々に粉砕。そして城もろとも爆死しています。篭城する場面も幽斎と似ています。

では幽斎はどうしたか。500の兵で15000の敵兵を迎え撃っているのです。戦いは激化しています。三成の包囲軍だって面子があります。たった500の兵を15000の兵で包囲しておきながら降伏させられないなんて大恥です。釈迦力になって戦いを挑んでます。幽斎の軍も流石に限界に近づきます。

幽斎は覚悟を決めた。そして歌道の師・三条西実枝から賜った大変貴重な「古今伝授の証書」の散逸を恐れ、門人であり当時の後陽成天皇の弟・八条宮へ全部お渡ししたいと書面を送ります。

驚いた八条宮は兄の天皇に相談。文化人・幽斎を失ってはならぬと八条宮が勅使として三成の包囲軍に停戦を命令。しかし包囲軍は天皇家は関係のない事としてそれを拒否する。

八条宮と天皇は思案し京都所司代である前田玄以に命じ、再度停戦を命じるも厳しい口調でまたまた拒否。

玄以は悩み抜き、今度は自分の息子を勅使として幽斎の元に送り開城を勧めるも、お家のために死を決意している幽斎は丁重に拒否します。

困った天皇は三人の公家を勅使として三成の包囲軍と幽斎に対し、天皇たっての願いとして和睦を命じる。

それに対し勤皇派の幽斎は感激し、「これ以上天皇の御心には背けない」として、包囲軍に先駆けて開城を決意。60日に及ぶ篭城戦を停止。その2日後に関ヶ原の戦いが開始されます。

当然、幽斎の田辺城を包囲していた15000の三成の包囲軍は関ヶ原の戦いには参陣出来ませんでした。それが何を意味するのか。

 

続く。

 

 

 

 

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次の大河ドラマは細川幽斎を希望する。その7

2016年05月18日 00時19分39秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画

続きです。

細川忠興は徳川に走った。それでも石田三成は細川幽斎を西軍に向かい入れようとします。幽斎の文化人としての力を身に染みて知っていたので。

幽斎の歌道の徒は公家や武家に大勢存在します。大変慕われています。当時は師と言えば主君や親同然です。幽斎が西軍に付いてくれれば団結力が高まる。裏切り者も出にくい。しかも明智光秀の盟友でありながら豊臣秀吉にも好かれていた。恩を受けていた。

幽斎も別な意味で三成以上に清廉な男です。真田信之と信繁兄弟の例もあります。息子の忠興が徳川に走っても、秀吉を裏切る行為はしないと言う目算があった様に思われます。

幽斎も徳川が勝つ事は判っていたと思います。だから忠興が徳川に付く事を許した。幽斎は武将ではない。戦う立場ではない。仮に中立を保った場合、佐竹氏の様に減封される可能性があるが減封それる程の領地もない。それどころか欲がない。だから参戦は考えていなかったと思われます。

しかしながら忠興の長男・忠隆の正室で前田利家の娘でもある千代は、人質になる前に姉の豪姫のいる敵方の宇喜多屋敷に逃れた。これは武家の嫁としては恥ずべき行為。しかも徳川から警戒されている前田家の血筋。徳川に咎められる。それにはどうしたら良いか。

忠興は息子の忠隆に千代との離縁を命じるが忠隆はそれを拒否。それで忠隆は廃嫡されている。それでも疑惑を晴らすには十分ではない。大ピンチです

それで幽斎は死ぬ事を覚悟したと思います。自分の犠牲で息子・忠興の立場、そして孫の忠隆の立場を徳川に認め納得させる。自分の死によって細川家の忠誠を示す為に。

三成は幽斎と歌道で交流がある三刀谷孝和を使者に立て幽斎親子の西軍への参陣を要請。忠興は東軍に付いたとしても細川家は疑われている。真田家の様に東西に別れるレースもある。何としても幽斎を西軍に付けたい。味方にならないのであれば殺さなければならない。西軍の幽斎を慕う者が惑わない為にも。

幽斎の人望は絶大です。使者の三刀谷も幽斎への協力を申し出て、西軍の内情を話します。幽斎はその場で篭城を決意します。

幽斎は忠興に大半の兵を持たせています。手元には500の兵のみ。忠興は丹後に三つの城を持っていたが、幽斎は田辺城のみを残して残りの城を焼き払います。

三成が差し向けた兵は15000。幽斎の兵の30倍。勝てっこないです。普通の神経なら戦わずに降伏します。

しかし幽斎は怯まない。鉄砲・大砲の激しい撃ち合いが始まっても幽斎は死を覚悟している。死ぬ為の戦い。降伏はありえない。

幽斎はたった500の兵で15000の敵兵を翻弄します。幽斎の軍略は真田親子にも引けを取らない。しかし兵力に差がある。三成の兵も焦りだします。こんな小城に15000の兵で攻めているのに中々落ちない。もう躍起となります。更に戦いは激化しました。

 

続く。

 

 

 

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次の大河ドラマは細川幽斎を希望する。その6

2016年05月17日 10時52分38秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画

続きです。

細川幽斎のメーンイベントと言うか、もっとも波乱だったのはやはり関ヶ原の戦いでしょう。

この関ヶ原の戦い、戦国史上と言うより世界的に見てもありえない凡戦と言いますか、呆れ返る駄戦でした。何たって東西とも主力軍が参戦してなかったのですから。

最近の研究で関ヶ原の戦いの東軍の総大将は徳川秀忠であった可能性が指摘されています。家康は隠居で息子の働きを観戦するつもりだったようです。

自慢じゃないですが私は初めからそう思っていました。徳川の主力部隊38000人の秀忠軍には、参謀として家康の側近・本多正信がいたのですから。

でも徳川秀忠と本多正信は相性が悪かった様に思えます。正信は家康の跡継ぎとして結城秀康を押していましたから。それで正信に対し不信感があった。だから正信が反対するのも聞かず、真田昌幸・信繁親子の挑発に乗って第二次上田合戦をやっちゃったのだと思います。

真田軍2500~3000の兵に対し秀忠軍は精鋭38000の兵です。簡単に勝てると思ったでしょうし、第一次上田合戦の仇を取りたかったのでしょうね。

それで昌幸の挑発に乗って戦ってしまった。またまた翻弄された。終いには関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

秀忠は戦には向いていません。二代将軍になるのを正信が反対したのも判ります。とんでもない凡将だと思いますね。

本来、関ヶ原の戦いは軍事的に見れば東軍が初めから有利でした。勿論、秀忠軍が参戦していたらの話です。しかし秀忠軍は来なかった。これは家康もこれは誤算だった。俄然、西軍が有利になってしまいました。

慎重な家康は西軍の武将に裏切りを持ちかけていた。形だけではありましたが西軍の仮の総大将だった毛利輝元でさえ裏切りを考えていたのです。それなのに徳川の主力であり本来の総大将である徳川秀忠が来なかった。これでは裏切るかどうか迷います。私が小早川秋秀でもやっぱり迷っちゃいますね。こうなっちゃったら。私は小早川秋秀の気持ちも判りますよ。

でも西軍もポカをしちゃっていたんです。何たって信頼できる西軍の15000の兵が参陣出来なかったのですから。

細川忠興は彼の性格から言って本来は西軍に組する筈だったと思います。彼は信長の家来でしたし、その流れで秀吉の家来となっています。彼は短気な正義漢です。直情で家来を切る事もしばしばありますが、曲がった事は嫌いです。だから岳父の光秀を嫌った。その流れで玉と別離した。彼は裏切りを嫌います。当然西軍に付いた筈です。

しかし、茶道の師である利休を秀吉と三成によって自害させられた。美しい妻の玉に秀吉はちょっかいを出した。それで嫌気が差した。だから家康に付き従っていたと思われます。

綺麗な水には魚は住まないものです。清廉な三成には同じく清廉で正義の大谷吉継や上杉家が味方しましたが、直情型の正義感である忠興は、清濁併せ持つ家康の水の方が泳ぎやすかったと思われます。

更に忠興は玉に対して愛情もなくなっていたが、秀吉が取り持っていたから形式上の夫婦を続けていた。キリシタンとなっていた玉も離婚は出来なかった。そこで玉は関ヶ原の決戦で石田三成の人質に取られそうになった。玉は自害を考え家臣の槍を胸に受け死亡する。こうなった場合どうなるか。

愛情が無くなったと言え玉は忠興の正妻です。妻が亡くなった原因を作った三成の西軍にはますます付く訳にはいかない。西軍に付いたらとんでもない腰抜け。末代の恥です。私だって東軍に味方します。家康が嫌いでもです。

 これは三成、本当に馬鹿な事をしたと思いますね。これで多くの武将が家康側に付きましたから。

 

続く。

 

 

 

 

 

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次の大河ドラマは細川幽斎を希望する。その5

2016年05月16日 14時33分47秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画

続きです。

信長が光秀に本能寺で討たれ、幽斎と忠興は剃髪し喪に服した。そして短気な息子の忠興は光秀の娘である玉を離縁し山小屋に隔離します。

信長は幽斎ではなく、忠興に12万石の所領を与えた。信長に恩を感じていたのは間違いないです。しかし岳父であり軍略の師匠であった光秀にも恩がある。辛かったと思いますね。そしてその辛さを玉にぶつけた。

忠興は信長の下で出世したかった。父が幽斎、岳父が光秀なら当然出世できた。それが反逆者の婿となってしまった。当然失望し怒り狂ったでしょうねぇー。また、その様な態度を取らないと秀吉や世間の手前もある。そうするしかなかったとも言えます。

玉はこの山小屋でキリスト教に関心を持ちます。玉に付き従った下女がキリシタンだったので。自分も一夜にして大名の妻から反逆者の娘に転落した。離縁された。気位が高く気性が荒い玉は幽斎・忠興親子に恨みを持ちます。その流れでキリスト教に走ったと考えられます。

その後、秀吉の仲介で忠興との仲を取り持たれたが、二人は別居状態のままです。忠興は側室を5人持つと玉に言った事で玉も激怒。どちらも短気ですからそうなると思います。

話を変えます。幽斎の文化人としての思想です。文化人としては同時期に茶道の利休がいました。息子・忠興も利休の門下に入り三斎を名乗っています。

利休は茶道に信念があり、その信念が利権となります。信長は恩賞として領地を与え続けるのは限界がある。そこで茶道を流行らせ茶器の価値を上げて恩賞としようと考えていた。故に利休たち茶人を優遇するようになった。茶器の価値を判断する人間が必要なので。

しかし茶器の価値を判断できる茶人はそれで権力を得る事になる。利権を行使するようになった。更に茶人の信念があるからこそ茶器の価値となる。そうなると秀吉も思いのままにならなくなる。それで利休は自害させた。そして信長の時代から考えられてきた朝鮮出兵も実行せざる負えなくなったと考えられます。茶器よりも領地でないと人は付いて来ないと考えたので。

幽斎の歌道は利権に繋がりません。幽斎の歌道は天下一品ですが誰からも憎まれないし警戒もされない。

例えばある公家が歌の下句に「と言う歌は昔なりけり」と付ければどんな歌にも合う。意味が通じると発言。周りの公家衆も「なるほど」と思います。

それに対し幽斎は「それは少々現実味がありません。生活感が足りません」と発言。怒った公家は「それでは細川殿は現実味がある下句が作れますか」と切り返す。

幽斎はしばし考えて「それにつけても金の欲しさよ」との下句を歌います。

幽斎は大名ではない。出家しているから城も無い。公家に比べれば慎ましい生活をしています。だからこの下の句でも嫌味はない。公家衆達は幽斎の立場ならではでの句に大爆笑します。現実性がないと言われた公家も笑いながら気分良く納得します。

彼の歌道は敵を作らない。判りやすく人の心を豊かにする。だから公家からも親しまれる。公家や武将からも師事するものが大勢出た。それが幽斎の戦力だと言えます。

この戦力は豊臣の天下でも、ものを言います。

九州制圧が開始され九州一帯を支配していた島津義久も降伏します。しかし、その弟の島津歳久は徹底抗戦の構えで川内川の城に陣取っています。

そこで秀吉は島津義久が幽斎の歌道の弟子である事を思い出し、幽斎に義久を通して歳久説得を頼みます。

幽斎は承諾。秀吉の力を切々と説き歳久の降伏を義久に頼みます。師匠である幽斎の頼みでは断れない。積極的に動くしかない。それで歳久の降伏に成功しています。

武力ではない幽斎の力には脅威は感じないが絶大な信頼がある。黒田如水の様に警戒もされない。恨まれず脅威でも無く人を動かす力は、戦国時代では幽斎の独壇場だと思います。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

 

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