諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

わらべ歌「通りゃんせ」を考察する。その2

2017年03月19日 08時13分00秒 | 神道

続きです。

お話の途中ですが、ウキペディアによると「通りゃんせ」発祥の地とされている三芳野神社に童謡「通りゃんせ」誕生の謂れが書かれてました。今ごろ気が付きました。しかも私の考えよりも的確です。自信が無くなってきた。どうしましょう。

一応書いて置きますと「通りゃんせ」の舞台は同神社の参道。川越城が築城され天神の曲輪に位置していた事から「お城の天神さま」と呼ばれた。城の中に天神社があるので、一般客の参拝は出来なくなった。それでも信仰が篤いので一定時間のみ参拝が許された。

しかし、この天神様に参拝するには川越城の南大手門から入り、二重、三重の門をくぐり、えらく城の敷地を周りに周って、さらにまた小道を通り三芳野神社へ行ってた。そうなると密偵が参拝客に紛れてスパイ活動されては不味い。だから帰りに参拝客を厳しく調査した。それが「行きはよいよい、帰りは恐い・・・・」と唄として歌われる様になったとの事です。

あるほどねぇー。これは決まりかも知れません。納得です。

でも疑問点は有ります。三芳野神社に参拝するために一般の参拝客が城の境内に入っているのに、小道まで来て「通さない」と言うのが変です。

それに天神は学問の神・菅原道真。七つの子の御札を納めに参るのであれば、七五三参りの筈。どうして菅原道真なのかも疑問。矛盾しています。菅原道真は左遷され怨霊とはなったが、天皇家の血筋です。信仰は否定されていない筈。

「御用の無い者通させぬ」と言ってますが、神社には誰だって参拝に行く訳です。それなのに何故通さないと言ったのか。そして「七つの子のお祝いの御札を納める」のであれば良いのか。そこが疑問です。

そこで私の稚拙な考えでは、三芳野神社はさいたま市の氷川神社を勧請したとの説がありますが、舞台が三芳野神社で無くても菅原道真を祀る神社に七五三参りをするのは不自然。

七五三は子供の生長を感謝し神社にお参りする。昔の子供は夭折しやすかった。その一因は疱瘡。

そして注連縄は七五三縄とも書く。そして注連縄は境界線。最初に注連縄が使用されたのは天岩戸から天照大神が出て来た後、天岩戸に開かないように結んだ。

そう考えると七五三は疱瘡神と境界の神、そして天照大神に何かしらの関連があると思われる。もしかしたら七五三参りの母娘は天神・菅原道真に参るのではなく、その神社の地主神に参るのではないだろうか。

私の友人の神社では七五三参りが有名です。そして祭神は天照大神。そして大歳神のファミリーも祀られている。

大歳神は境界の神であり、何れ詳しく語りたいと思いますが疱瘡神です。

私は童謡の内容から関所の役人と参拝の母子の話だと考えています。関所の横に小道があった。だから母子は小道に付いて尋ねた。天神様だと役人は答えた。母子は天神様の地主神が誰なのか知っていた。子供を守る神である事を知っていた。

関所の役人もそれは知っている。しかしその地主神への信仰は朝廷に敵対する行為。その信仰は許されない。だから「参拝するのは勝手だけど、帰りは禁じられた信仰をする者として厳しく取り締まるぞ。それでもいいのなら通れ」と言ってるのではないでしょうか。

ここでのキーワードは関所です。関所の神は道祖神。

道祖神祭りは子供の穏やかな成長を祈るまつりです。そして道祖神は安産の神であり、子供の神でもある。つまり細道の天神様を祀る社の地主神は道祖神で、母子は道祖神に御札を納めに行きたかったのだと推測します。

仮に「通りゃんせ」の舞台が三芳野神社だった場合、どの神に御札を納めに行きたかったのか。

三芳野神社に祀られれている神は、スサノオ命、奇稲田姫、菅原道真、応神天皇です。私はこの神々ではないと思います。

それでは誰なのか。氷川神社から観請したのであれば氷川神社摂社の門客人神社に祀られている手名稚命・足名稚命だと考えます。

この二神の名は子供を手で撫でる、足で撫でる様に可愛がると言う意味もあります。そしてその子には奇稲田姫を含む8人の娘がいた。その点からも子供を守る神だと言えます。

そして門客人とは地主神を意味する。氷川神社の門客人神は境界神・アラハバキ神と伝えられていますが、手名稚命・足名稚命がアラハバキ神であると私は考えます。

手名稚命・足名稚命は妖怪・手長足長とされます。そしてアラハバキ神であるなら、道祖神であると言えます。忘れられ蔑まれた存在です。その信仰は朝廷も咎める筈です。

以上から七五三参りの母子は、道祖神の流れの上記の神々に御札を納めに行ったのだと考えます。今の所はです。以上です。

 

ではでは。

コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わらべ歌「通りゃんせ」を考察する。その1

2017年03月16日 11時39分42秒 | 神道

昔から変だと思っていたんです。わらべ歌「通りゃんせ」の歌詞が。矛盾点があるのです。

否、矛盾しているとは言い難いですけど、チョット不審なんですよねぇー。疑問点といいますか、それを見つけて欲しいという作者の意図が隠されていると言うか・・・・。

 まぁー、ご存知だと思いますけど、一応書いときます、

 

「通りゃんせ 通りゃんせ 

ここは何処の 細道じゃ 

天神さまの 細道じゃ 

ちょっと通して 下しゃんせ 

御用のないもの 通しゃせぬ 

このこの七つの お祝いに 御札を納めに まいります

 行きはよいよい 帰りはこわい 

こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」。

 

ウキペディアの歌の訳ではこうなります。

「通りなさい 通りなさい

ここは どこの細道ですか

天神様の細道ですよ

ちょっと通して下さいませんか

御用の無い方は 通させません

この子の七つの御祝いに 御札を納めに参ります

行きは普通に行けますが 帰りは困難ですよ

困難ですけど 通りなさい 通りなさい」です。

 

ここから考えると、これは役人と参拝客の会話ですね。役人は関所の者でしょう。ウキペディアでもその説を挙げています。「出立は楽だが帰還の際は調べられるよ」との意味ともしています。

又、別の説では、大飢饉で食糧難になっている時期に村民から尊敬されている神社の神官が、「食料を捧げないとお前の大切な子供を食べてしまうぞ」と言う意味が込められていると書かれています。

私は違うと思います。食料は欲しいでしょうけど、神官が神社に祀られている神を言い訳にそんな事を言うとは思えません。

この「通りゃんせ」は江戸時代に歌詞が作られたそうです。作詞者は不明です。神奈川県小田原市の菅原神社(山角天神社)、埼玉県川越市の三芳野神社は発祥との説があるそうです。

この歌詞での疑問点ですが何故に七つに成った子供の祝いの為に、天神である菅原道真を祀る神社に参るのかです。

菅原道真は学問の神。そして七つの祝いと言う事は七五三参りの事でしょ。そして七つの子は女の子の筈です。そこが変です。

今では何処の神社も七五三参りはしています。菅原道真を祀る神社に七五三参りして悪い理由にはなりませんが、菅原道真を祀る神社でなければならない訳では無い。それなのに歌詞にしている。そこが変です。

 

続く。

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災の真実。当時、何があったのか。その4

2017年03月15日 09時31分48秒 | 東日本大震災

続いています。

震災当時、泥棒と一緒に集まってきたのはボランティアです。当時はボランティアするなら交通費はタダでした。それでも体育館等で寝泊りして、無償で働いてくれました。頭が下がる思いです。それに地元の人は助けられたし、勇気も貰った。震災被害者の気持ちを感じてくれて嬉しかったです。

地元の人もそれで腐らずに立ち直った人も大勢いると思います。本当にこの人達は善だと思います。その善を見せ付けられたから、優しい心のままでいられた人もいた筈。日本はまだまだ捨てたものではないと思いました。

しかし、その善意のボランティアを装って、ただ単に旅行に来ただけの人もいた。ボランティアは交通費が無料。それならと仙台に旅行に来た。ボランティアなんて一切せず、観光地感覚で被害地を周って楽しんで帰って行っただけ。

食料を集めるのも大変な時期だったのに、被災地にお得に旅行を楽しむだけに来るなんて呆れ果てましたよ。

こんな事を見せ付けられると本当にゲンナリします。しかも震災で保険金が下りて大儲けしていると思っている。儲けやがってと怒っている。そんなの一部の人ですよ。私なんてポロポロ状態です。地震保険なんて入っていなかったので。

住んでいる土地の地盤が悪かった。盛土の手抜き工事の土地だなんて全然知らなかった。地震に強い建物を建てたつもりでしたが、強固な建物であっても地盤が悪ければどうしようもない。こんな事も判らなかった。本当に馬鹿でしたわ。

私はこの程度で不貞腐れちゃいましたが、家族を失っても真っ直ぐに生きて行こうとする人もいる。その人に対して自分の心の弱さに劣等感を感じる。私はその人たちに比べ相当遅れ劣っています。焦っている。それが辛いです。

話を津波被害地に戻します。

当時、全国の警察官が被害地に入り、この泥棒どもから流された財産を守ってくれた。多くの都道府県のパトカーが被害地をパトロールしてくれていたのです。

威張る為、安定した暮らしの為に警察官になった人も大勢いるでしょうが、この人達は真剣に津波被害地を泥棒から守る為に働いてくれた。私も不審者と思われちゃいましたが。。

それと自衛官が細い鉄棒を持って丁寧に土中に刺す行為をしていました。被害者を探す為です。大勢の自衛官が一列になって隅から隅までです。頭が下がります。私だったら土中の遺体を鉄棒で捜す行為は心が張り裂ける。大変な仕事だと思いましたわ。

私、自衛隊は日本国の門番であると考えています。この人たちも凄いストレスを抱えて仕事をしている。虐めをする馬鹿な自衛官や警察官も大勢いますが、やっぱり心ある者がその任務をして頂くのは本当に有り難い。どちらももっと強化して欲しいです。所得税を以前の水準に戻して。

最後になりますが、私、牡鹿半島に何度も釣行しています。しかし震災後は釣りをしていない。実はネットで見たんですよ。牡鹿半島の砂浜に打ち上げられた瓦礫の中に、焦げ茶色した遺体が大勢いたのを。

ラジオでは牡鹿半島に1000人以上の遺体が打ち上げられていると報じていた。私は信じられずネットで検索。そしてその画像を見つけたのです。

遺体は殆ど衣類を着けておりません。瓦礫と一体化と言うか、瓦礫そのものになっている。命が消えた遺体。その恐ろしさに震えました。

その瓦礫には50人以上、否、100人近い遺体が見えました。その光景は写真であっても心を突き刺します。心がグチャグチャになります。釣りどころではないと思いました。そして自分はその人たちから比べれば、申し訳ないですが十分に運が良い。その運の良さが申し訳ないと感じる。

その画像は削除された様ですが、総勢2万人を越える人の命が奪われた。そして家族を奪われた者の心は傷付いたままです。

それなのに震災地の人々を甘えていると非難する人がいる。放射能から逃げて来た人を苛める人がいる。こんな日本のどこが美しいのか。

そして私もそうかも知れないが、震災で精神を狂わせた者も大勢います。私も睡眠薬と精神安定剤に頼る生活をする様になってます。立ち直りたくても立ち直れない人が大勢いるのです。

どうやったら治るのか苦しんでいる。震災被害地の人々の多くが。それが甘えと言うなら甘えでしょう。私も甘えたくない。早くここから切り抜けたい。そう思っている人が大勢いると思います。

私はもっと神社に鎮座する神々に頼ろうと思っています。一人の私はそれしかないので。私の穢れはまだまだ取れていませんので。

 

ではでは。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災の真実。当時、何があったのか。その3

2017年03月14日 02時08分51秒 | 東日本大震災

続いています。

何を見たのかって言っても何も見えなかったんです。瓦礫だらけでバイクが入れないし、全国のパトカーと警察官が大集合して立ち入り禁止にしてましたから。

理由は泥棒です。日本中の泥棒が津波被害地に大集合して盗み捲くっていたのです。これには呆れました。これが日本の真実ですよ。「美しい国・日本」なんてよく言うよ。原発だって全然解決していないのに。

津波被害地では24万台のクルマが流されました。宮城県だけで146000台のクルマがそこらへんにひっくり返って転がっていました。そのクルマですが、結構な割合でタイヤがありません。タイヤ泥棒が持っていったのです。しかもカーナビもカーステレオも持っていかれてます。当時の津波被害地は泥棒天国でした。

しかも多賀城市で見たのですが、津波被害にあった某古本チェーン店に小学生・中学生と思われる子供が群がっていました。

コミック等々の本は濡れてそままですが、CDやゲームソフトを立ち入り禁止にされている店に入って持ち帰っているのです。宮城県の子供も泥棒、否、窃盗犯ですよ。

どっかの甲子園常連高校の野球部部員7名も同様、家宅侵入して泥棒で書類送検されています。その高校は泥棒野球部員を厳重注意だけで済ませてます。停学・退学させたら甲子園に出られなくなるからでしょうか。

甲子園球児は爽やかで清清しいなんて言ってますが、窃盗しておいて何が甲子園ですか。どっかのメジャーリーガーも高校生時代、タバコを吹かしながらパチンコしていました。注意してもまたタバコを吸った。その責任を取って監督が辞任しているのに、よくヒーロー面していると思いますよ。

宮城県の強豪の高校球児はこんなのが多いですね。私は見たくもないですよ、こんな人達の野球なんか。

当時、仙台駅は目的を持った人でごった返していたそうです。その一部は泥棒です。中でも某大国の人達は大勢来ていました。

彼らは徹底しています。津波被害者の腕や指を切り落として腕時計や指輪を強奪したのですから。財産を少しでも持ち出して避難したが運悪く津波に飲まれ命を落とした人の体を切る。死体損壊をしてまで金品を持ち去る。これが人間のする事ですか。この事実をどうしてマスコミは流さないのか。

その大国を鑑みてかん口令を引いたのでしょうけど、事実は事実です。どうどうと発表すべきだと思います。ここまでの事をしているのですから。

地元民も泥棒は大勢いました。津波被害の信用金庫に入り、1500万円入りの金庫を盗んで大喜びでユーチューブに載せた高校生。警備員がいても立ち入り禁止のスーパーに入り、食品を強奪した人々。並んでもガソリンが買えず店員を怒鳴り捲くっている人。兎に角、気が狂っているのではないかと思える人が結構いました。

日本は震災にあっても暴動や略奪行為は無かったと発信し、世界から賞賛を得ていましたが、そんなの真っ赤な嘘です。実際はありました。嘘ばかりですよ、日本は。

 

続く。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災の真実。当時、何があったのか。その2

2017年03月13日 14時06分17秒 | 東日本大震災

続きです。

電気は繋がっても水は1ヶ月前後断水したままでした。多くの場所で給水車が来ていましたが、それでは全然足りません。お風呂だって洗濯だってトイレだって水は必要ですから。

それで人々は小学校のプールの水を汲んで運んでいました。それでも風呂になんか入れなかったでしょうけど。ガスも復旧に時間が掛かっていましたし。

私の家は3階建てのRC造りです。給水タンクが有ります。電動ポンプで一階のタンクから屋上のタンクへ水を汲み上げます。だから水の心配は少なかったです。

でも下の階に住んでいる賃借人は水が出るのに驚いていました。「ここは井戸水なのですか」と言って。

私は「タンクに水が貯蔵している。出来るだけ節約してください。トイレも小は流さずにして」と言いました。でもある部屋の人が「ウチの建物は水が出る」と言って、多くの人がやってきて水を配ってタンクの水も無くなっちゃいましたけど。

同じ街に住む弟の家は水道が回復して風呂には入れるようになりましたが、トイレを流せないのは辛いですね。節約して欲しかったな、賃借人たちには。

賃借人の中には小学校に避難したも者もいました。食事と水は供給されていたから、私らも走した方が良かったかも。でも私、やっぱり団体行動が苦手だから駄目だな、やっぱり。

それとテレビもCMは無くなっていました。「ポポポポポポポォーン」と言うヤツばかり流れていましたね。それでも電気が来る前はロウソクで灯りを取ってラジオのみの状況だったので、電気も有り難いと思いました。文明はやっぱり良いですね。

それにしても水や食料、灯油を買うのには苦労しました。ガソリンも貴重なのでクルマも動かせませんし。

でも、私にはバイクがある。ヤマハ・タウンメイトT90と言う名車が。このバイクは新聞配達、郵便配達専用車がベースなので荷物も多く積めます。当時の道路は陥没箇所だらけだったのでクルマは通行できないケースが多かったですが、バイクなら避けられる。これには助かりました。1リットルで35キロ以上走りますし。

其れでポリタンクを積んで、そこら辺をツーラツラと走り、水の供給を受けたり、菓子パン等の食料を買出ししていました。ガスは止まっていたけどカセットガスがある。部屋の中でキャンプしている感じです。それは其れで生活は出来ました。

ガソリンが普通に変えるようになった時、私は津波被害地の現状を見て来よう。目に焼き付けて来ようと考え、亘理から七ヶ浜、塩竃までの海岸線へ。

その時、見たものとは・・・・・・・・・・・、

 

続く。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする