続きです。
源頼朝とはどう言う人物なのか。
これは現代人の感覚で考えては駄目です。当時の人々の感覚で考えないと。
当時は乳兄弟の関係が実の兄弟よりも絆が深かった。兄弟は自分の立場を危うくする存在。ライバルと考えるのが一般的でした。だから頼朝の父・義朝も乳兄弟で側近の鎌田政清と行動を共にしたのです。
因みに源頼朝の乳兄弟は山内首藤経俊と言います。
1180年に頼朝は挙兵。経俊へも参陣を要請したが、経俊は頼朝の悪口を叩き拒否しています。1160年の平治の乱で父と兄を討たれていたので、もう源氏には付きたくなかったのだと思います。
それでか石橋山合戦に置いて経俊は平家方の大庭景親に従い参戦。頼朝に矢を射かけてます。結果は源氏の敗戦となりました。
しかし、何時の世も諸行無常。その10か月後に経俊が参戦した大庭景親軍は源氏に敗戦。大庭景親の軍は源氏側に付く事で多くの兵は罪を免れたが、経俊は斬首が決定した。
そこに経俊の母であり頼朝の乳母である山内尼が現れ、息子の助命を懇願。
頼朝は自分の鎧に突き刺さった矢を持って来させた。矢には討った持ち主である経俊の名前が書かれていた。それを見た山内尼は言葉なく引き下がる。
でも、経俊は処刑されずに済んだのです。一番の理由は乳母を悲しませたくないからでしょうが、経俊が乳兄弟と言う点もあったと思えます。
それと経俊は大凡人だった。それを頼朝も知っていた。凡人ゆえに世の流れが見えない。頼朝の肉親は油断ならない者ばかりだったが、経俊は何の取柄も無い男。生かしていても問題は無い。そう思ったのではないでしょうか。
現にあの時代としては珍しく89歳まで生きたそうです。
実力以上に出世して天寿を全うした。何の影響も及ぼさない男だったら、敵を作らなかった。それが長生きの秘訣なのでしょうね。
ちょっと話は逸れましたが、頼朝は何度も女性に助けられて生き延びた。だから頼朝は女性には甘かった。そして能力がある者を警戒していたのだと思います。
頼朝は平家に捕まった時、平清盛の継母である池禅尼の助命嘆願により命が助かった。その恩に報いて平家滅亡後も池禅尼を大切に扱ったいたそうですが、女性は自分の味方になってくれる。
頼朝の女好きは、そんな感情があったからだと思えます。
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