諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その5

2022年08月12日 14時36分53秒 | 永井直勝
続きです。

源頼朝とはどう言う人物なのか。

これは現代人の感覚で考えては駄目です。当時の人々の感覚で考えないと。

当時は乳兄弟の関係が実の兄弟よりも絆が深かった。兄弟は自分の立場を危うくする存在。ライバルと考えるのが一般的でした。だから頼朝の父・義朝も乳兄弟で側近の鎌田政清と行動を共にしたのです。

因みに源頼朝の乳兄弟は山内首藤経俊と言います。

1180年に頼朝は挙兵。経俊へも参陣を要請したが、経俊は頼朝の悪口を叩き拒否しています。1160年の平治の乱で父と兄を討たれていたので、もう源氏には付きたくなかったのだと思います。

それでか石橋山合戦に置いて経俊は平家方の大庭景親に従い参戦。頼朝に矢を射かけてます。結果は源氏の敗戦となりました。

しかし、何時の世も諸行無常。その10か月後に経俊が参戦した大庭景親軍は源氏に敗戦。大庭景親の軍は源氏側に付く事で多くの兵は罪を免れたが、経俊は斬首が決定した。

そこに経俊の母であり頼朝の乳母である山内尼が現れ、息子の助命を懇願。

頼朝は自分の鎧に突き刺さった矢を持って来させた。矢には討った持ち主である経俊の名前が書かれていた。それを見た山内尼は言葉なく引き下がる。

でも、経俊は処刑されずに済んだのです。一番の理由は乳母を悲しませたくないからでしょうが、経俊が乳兄弟と言う点もあったと思えます。

それと経俊は大凡人だった。それを頼朝も知っていた。凡人ゆえに世の流れが見えない。頼朝の肉親は油断ならない者ばかりだったが、経俊は何の取柄も無い男。生かしていても問題は無い。そう思ったのではないでしょうか。

現にあの時代としては珍しく89歳まで生きたそうです。

実力以上に出世して天寿を全うした。何の影響も及ぼさない男だったら、敵を作らなかった。それが長生きの秘訣なのでしょうね。

ちょっと話は逸れましたが、頼朝は何度も女性に助けられて生き延びた。だから頼朝は女性には甘かった。そして能力がある者を警戒していたのだと思います。

頼朝は平家に捕まった時、平清盛の継母である池禅尼の助命嘆願により命が助かった。その恩に報いて平家滅亡後も池禅尼を大切に扱ったいたそうですが、女性は自分の味方になってくれる。

頼朝の女好きは、そんな感情があったからだと思えます。


続き。


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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その4

2022年08月10日 22時40分54秒 | 永井直勝
続きです。

戦と言うのは勝つまでが大変ですが、勝ってからも中々大変なんです。味方に付いた家臣や武将に領地と言う恩賞を与えねばなりませんからね。

事実、鎌倉幕府を引き継いだ北条氏も蒙古襲来で滅んだ様なものです。

蒙古に勝っても蒙古の土地を分け与える訳にはいかない。蒙古と戦い勝ったのに恩賞が貰えない。北条氏に従った武家は不満を持つ。

日本の土地は有限です。当時は北海道も無かった。それで織田信長は焼き物に価値を見出して恩賞として与えようとしたが、それが定着する前に明智光秀に討たれた。

明智光秀の領地を取り上げて、他の武将の恩賞として分け与えようとしたが、光秀は納得しなかった。それが元で討たれた部分が確実にあると思います。

豊臣秀吉も朝鮮出兵し、大陸の領地を得て恩賞として分け与えようとしたが、完全に失敗した。

源頼朝もその難しさを熟知していた。長田忠致に美濃と尾張を与えたら、他の有力な武家にもそれ以上の領地を与えねばならん。そんなのは無理だ。

長田親子はよく働いた。しかし親の仇である。言い訳が立つ。殺しても御家人達は納得する筈。

そして1090年。「約束通り、褒美を取らす」として長田親子を呼び出した。そして捕えた。

まっ、ここからも諸説あるんです。平家が滅んだ後に頼朝は兵を出して長田親子を殺そうとしたが、長田親子は逃げ回った。そしてとうとう捕まったとか。

一般的なのは「約束通り褒美として美濃と尾張をくれてやる」と呼び出し、その場で取り押さえ松の木に磔にして処刑したと言うヤツです。長田親子が磔にされた松の木も朽ちてはいますが残っていますしね。

でもねぇ-、今から830年以上前の話なんです。朽ちているとは言え、その松が830年前に磔に出来るほどの太さがあったのか疑問です。多分、観光客目当て??で、誰かがでっち上げたのではないかなぁ-。

私が一番信憑性が高いと思うのは戸板に磔にして道に横たえて、木刀でぶっ叩いたり、爪を剥いだり、顔の皮を削いだりして数日かけて処刑した説です。

何たって頼朝の父・義朝は風呂場で長田親子の兵に襲われて、「せめて木刀の一本でもあれば戦えたものを」と言い残して討たれていますから。その最後の言葉を受けて木刀で殴り殺したのではないかと思います。

それと頼朝が長田親子の処刑に当たって、「約束通り身の終わり(美濃・尾張)をくれてやる」と言ったのも後の創作だと思います。

だって刑場の高札に「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守、身の終わり(美濃・尾張)をぞ今ぞ賜る」と長田忠致の辞世の句が書かれてあったと言うのです。

処刑される前に長田親子が、こんなダジャレの辞世の句を語る訳が無いですよ。

自害ではないのです。大変残酷な処刑の前なのです。ダジャレで笑わせる心境の筈無いじゃないですか。

もし本当にその辞世の句が掲げられていたとしたら、源頼朝がふざけ半分で掲げた。それほどまでに源頼朝は残酷な男なのだと思います。


続く。





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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その3

2022年08月09日 10時18分34秒 | 永井直勝
続きです。

私、正負の法則を信じているのですが、親が不遇の人生を送ったり、不慮の事故で亡くなったら、その子は何故か幸運に恵まれるケ-スが多いと感じています。

さて、打倒!!平家。源頼朝は同族の木曽義仲に先を越された。最初に木曽義仲が京の平家を攻めた。万事休すです。

でも源頼朝は運が良い。木曽義仲の軍勢が京都で乱暴狼藉を働き、朝廷は木曽義仲討伐を源頼朝に命じた。頼朝は弟・義経らに命じて木曽義仲を討つ。更には平家も滅亡させた。そして武家の棟梁の地位に就いた。

この時点での長田忠致・景致親子はどうなっていたのか。

実は1180年の鎌田の戦い(治承・寿永の乱)で平家方として戦い、源氏方の武田信義に討たれたとの話もあるのです。また、武田信義が甲斐の国に逃がしたとの話もある。

更には父親の長田忠致が壱岐島に赴任。息子の景致のみが残ったとの話もあります。

その説が正しければ後の長田親子の物語は続かないのですが、私としては鎌田の戦いで武田信義に投降し、源義朝の臣下となった可能性の方が高いと思います。

そして平家が滅亡し源氏が武家の棟梁となった。残るは奥州藤原氏のみ。

頼朝としては運が良い事に弟・義経と対立する事となった。

後白河法皇は木曽義仲に幽閉されていたのを義経に助けられた。義経は恩人だ。それなのに後白河法皇は頼朝の依頼だろうが、義経を朝敵として討つように頼朝に命じた。義経は奥州藤原氏の元に逃げ帰った。

頼朝としては好機到来。義経を討つ名目で奥州藤原氏まで滅ぼした。1089年だった。

これで源氏の天下となった。もう恐れる武家は無くなった。怖いものはない。

そうなると長田親子との約束を果たさなければならない。美濃と尾張を与えると言ってしまった。

そこで頼朝はこう思った筈。「何で父を殺した奴に美濃と尾張と言う広大な領地を与えなければならないのか」。

頼朝は平家に敗れた時、父・義朝一行と共に逃避行していた。途中、父の一行とはぐれた。そして平家に捕まった。

平家には捕まったが、伊豆に幽閉されて命だけは助かった。

もし、父・義朝一行とはぐれずに長田忠致の屋敷に辿り着いていたらどうなっていたのか。

長田忠致は父・義朝だけではなく、自分の婿である鎌田政清まで殺している。そうなると自分も殺されていたのは間違いない。

運良く父とはぐれたから助かった。こんな幸運は無い。自分に運が無ければ長田忠致に殺されていたのだ。それなのにどうして長田親子に美濃と尾張の領地を与えねばならんのか。


つづく。






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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その2

2022年08月06日 14時19分13秒 | 永井直勝
続きです。

平家にあらずんば人にあらず。

源義朝が亡くなり武家の棟梁となった平家は増長します。

まぁーね、源義朝と平清盛を操って源平合戦をさせたのは後白河法皇です。後白河法皇は自分の権力を高める事しか頭にない。

武家を好ましく思っていない後白河法皇は、台頭してきた平家にもにも牙を向ける。平家討伐令をだす。

それに多くの武家が呼応した。

平家は公家になった。武家なのに武家を軽んじた。源氏の棟梁である源義朝を討った長田忠致に対しても十分な恩賞を与えず、逆に命を狙った。

これでは多くの武家が平家に対して不満を抱く。武家の棟梁として相応しくないと考えるのも当然。

そして伊豆に流されていた源義朝の息子である頼朝が平家打倒に名乗りを上げる。

長田忠致・景致親子はどう出たか。二つ説があります。

一つは平家に命を狙われて源頼朝に助けを求めた。もう一つは源頼朝に攻められて降伏し帰順した。このどちらかです。

長田忠致・景致親子は、自分達の命と引き換えに一族を守って欲しいと頼朝に懇願した。

頼朝は父の事は忘れる。私怨は水に流す。自分に力を貸してくれるのであれば、希望していた美濃と尾張を与えても良いと語る。

この時の頼朝の頭には長田親子を助ける事による多大なメリットを計算したと思います。

平清盛・重盛親子は源氏の棟梁を討った長田忠致に十分な恩賞を与えず、不満を述べた長田忠致に激高。命を狙う様になった。その状況に武家たちは平家に対して不信感を持った。

長田親子は自分の父親である義朝を卑怯な手で討った。頼朝は父の敵を討って当然。武家達はそれには納得するだろう。

しかし、私怨を捨てて長田親子を助ければどうなるか。

長田親子は感激し自分に忠誠を誓う。平家には命を狙われている。平家打倒に命を捨てる働きをするのは間違いない。

武家達には長田親子に対する平家の対応と、自分の対応の違いを明確に示せる。多くの武家は自分の器量に感服する。そして自分の元に武家達が馳せ参じる。

現にその言葉に感激した長田親子は、比類なき働きをしたとの事です。

更にはライバル関係と言える奥州藤原家に身を投じていた義経も、藤原秀衡が止めるのも聞かず頼朝の元に駆け付けた。多くの武家が頼朝の元に駆け付けた。

これは長田親子を助けた効果が間違いなくあったと思えます。


続く。




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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その1

2022年08月04日 11時31分14秒 | 永井直勝
今までも何度か語っておりますが、私の家系は源頼朝・義経兄弟の父・源義朝を卑怯にも風呂場で殺した長田忠致に繋がっています。

何故、源義朝を殺さなくてはならなかったのか。

ご存じだとは思いますが、平清盛と源義朝は共に朝廷の為に働いていたのです。当然、面識があります。互いに良く知った存在です。

二人は共に一族を犠牲にして朝廷に忠義を尽くした。それなのに朝廷は平清盛を贔屓にした。源義朝が不満に思うのも当然。

それで謀反を起こし源氏と平家は戦う事となった。平家が勝利した。源義朝一行は落ちのびた。

そして側近であり乳兄弟でもある鎌田政清の舅・長田忠致の屋敷に逃げ込んで来た。

これは長田忠致にとっては堪ったものではない。流石に出て行けとは言えない。

平清盛は鎌田政清の存在も当然知っている。平家の探索が長田屋敷まで辿り着くのは時間の問題。

長田家は平家の家系だが、匿っていたのを知られたら長田一族は全員処刑される。一族を守る為には源義朝を殺さなければならない。

断腸の思いだったでしょう。そうなると婿の鎌田政清も殺さなくてはならないので。

そして決行。源義朝は武芸に秀でていたので、確実に仕留める為に風呂に入っている時を狙った。源義朝は「木刀の一本でもあれば戦えたものも」と言い残し絶命した。

長田忠致は源義朝の首を持って平清盛の元へ。その褒美は壱岐守のみだった。

長田忠致は不満を感じた。源氏の棟梁を討ったのである。その為に娘婿の鎌田政清も殺した。娘はそれを苦に自害した。それ程の犠牲を強いて平家に忠義を尽くした。同じ平家の家系だからだ。それなのに得られたのは壱岐島のみ。それはあんまりだ。

源氏の棟梁を討った事で源氏の残党からは恨まれている。命を狙われる。壱岐守の地位では防ぎようはない。美濃と尾張位の領地が無ければ防衛出来ない。長田一族は源氏の残党に滅ぼされてしまう。

それで長田忠致は述べた。「源氏の棟梁を討ったのだから、美濃と尾張程度の領地は得られて当然。壱岐守のみとは余りにも理不尽」と。

それに怒ったのは平清盛の長男・重盛。「卑怯にも風呂場で討った者が何を言うか。この場で成敗してくれるわ」と言い放つ。

長田忠致は伏して詫び、逃げる様に帰った。しかし、重盛の怒りは収まらない。長田忠致の命を狙う様になる。

以上の話は諸説ありますが、概ねこんなところだと思います。この経緯を見て他の御家人はどう思うか。

平家は武家の棟梁となった。それなのに公家を気取る様になった。武家を軽んじ始めた。

そして長田忠致に対する対応。卑怯な手であっても源氏の棟梁を討つ武功を上げたのに恩賞は壱岐守のみ。不満を漏らしたら激怒し命を狙われる。

こんな平家では忠義を尽くしても十分な見返りは得られない。ただの駒として使われるだけ。これでは堪ったものではない。

多くの御家人はそう思ったのではないか。


つづく。




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