続きです。
私、正負の法則を信じているのですが、親が不遇の人生を送ったり、不慮の事故で亡くなったら、その子は何故か幸運に恵まれるケ-スが多いと感じています。
さて、打倒!!平家。源頼朝は同族の木曽義仲に先を越された。最初に木曽義仲が京の平家を攻めた。万事休すです。
でも源頼朝は運が良い。木曽義仲の軍勢が京都で乱暴狼藉を働き、朝廷は木曽義仲討伐を源頼朝に命じた。頼朝は弟・義経らに命じて木曽義仲を討つ。更には平家も滅亡させた。そして武家の棟梁の地位に就いた。
この時点での長田忠致・景致親子はどうなっていたのか。
実は1180年の鎌田の戦い(治承・寿永の乱)で平家方として戦い、源氏方の武田信義に討たれたとの話もあるのです。また、武田信義が甲斐の国に逃がしたとの話もある。
更には父親の長田忠致が壱岐島に赴任。息子の景致のみが残ったとの話もあります。
その説が正しければ後の長田親子の物語は続かないのですが、私としては鎌田の戦いで武田信義に投降し、源義朝の臣下となった可能性の方が高いと思います。
そして平家が滅亡し源氏が武家の棟梁となった。残るは奥州藤原氏のみ。
頼朝としては運が良い事に弟・義経と対立する事となった。
後白河法皇は木曽義仲に幽閉されていたのを義経に助けられた。義経は恩人だ。それなのに後白河法皇は頼朝の依頼だろうが、義経を朝敵として討つように頼朝に命じた。義経は奥州藤原氏の元に逃げ帰った。
頼朝としては好機到来。義経を討つ名目で奥州藤原氏まで滅ぼした。1089年だった。
これで源氏の天下となった。もう恐れる武家は無くなった。怖いものはない。
そうなると長田親子との約束を果たさなければならない。美濃と尾張を与えると言ってしまった。
そこで頼朝はこう思った筈。「何で父を殺した奴に美濃と尾張と言う広大な領地を与えなければならないのか」。
頼朝は平家に敗れた時、父・義朝一行と共に逃避行していた。途中、父の一行とはぐれた。そして平家に捕まった。
平家には捕まったが、伊豆に幽閉されて命だけは助かった。
もし、父・義朝一行とはぐれずに長田忠致の屋敷に辿り着いていたらどうなっていたのか。
長田忠致は父・義朝だけではなく、自分の婿である鎌田政清まで殺している。そうなると自分も殺されていたのは間違いない。
運良く父とはぐれたから助かった。こんな幸運は無い。自分に運が無ければ長田忠致に殺されていたのだ。それなのにどうして長田親子に美濃と尾張の領地を与えねばならんのか。
つづく。