続きです。
お題の「死んだら楽になるのか?」ですが、当然、自殺は是か非かと言う事です。私の人生のテーマの1つです。大変興味があります。仏教での回答が。
お坊さんは「キリスト教では人の命は神が与えたもの。だから人が勝手に終わらせてはならないと考えています」と言った。
そんなの知っているよ。こちとら幼稚園、中学、高校、大学とプロテスタントの学校に通っていたんだ。劣等生だったが聖書の成績は良くて「牧師」とまで呼ばれた私だ。知らないでか。
そんな事はどうでも良いんだよ。仏教は自殺を肯定しているのか、否定しているのか。それが知りたいんだよ。
お坊さんは「貴方の命はご先祖様が繋いできた命です。それを粗末にしてはいけません」と語った。
私は時代が時代だったら親に殺されていた存在だ。縄文人や弥生人の頭蓋骨の凹みから、15~20%の人間が親や家族に殺されて来たのが分かっている。
親や家族、そして仲間に殺されたくないから人は向上心に目覚めた。人が頑張って生きるのは殺されたくないと言う遺伝子が働いているのだ。貴方が住職になったのもその遺伝子が働いているからだろ。
でも、それが無理だったら殺されない為に自殺するのは人間の本能ではないか。
宮城県には千日何とかと言う苦行を達成したお坊さんがいる。確か10日間だか水しか飲まず、喰わず寝ずでずっと立ったままお経を唱え続ける苦行を達成したお坊さんもいると聞く。
人間の本能、否、生物の本能に逆らうことが仏教なのか。まっ、確かに昔の仏教は結婚もせずに肉や魚も食べなかった。しかし、今のお坊さんはどうだ。結婚して子供もいて肉も食べるだろ。本能に従う事を是としている。
自殺も本能なのだ。私は注射恐怖症で失神した事があるが、注射の恐怖で心をシャットダウンしたのだ。これは一つの自殺だ。辛い思いをしたく無いから心が死んだのだ。
脚立から落ちたり、トラックに轢かれた時も失神した。心をシャットダウンして心を守ったのだ。
心と命、どちらが大切なのか。自殺が本能であるならば、命より心が大切だと言える。それが人の遺伝子に備わっているのではないか。
お坊さんは「貴方が自殺すれば悲しみ苦しむ人がいる。その人の為にも自殺はしない方が良い」と言った。
自殺する人はそんなの十分承知しているよ。それに肉親が1人もいない人なら自殺はOKなのか。
考えに考えて苦しんで苦しんでどうしようも無くなって自殺の道を選ぶんだよ。その事を分かっていて気安くそんな発言しているのか。それは許さんぞ。
私の心は怒りに満ちた。よし、質問してやる。
お釈迦様は弟子達に「人は穢れている。そして生きる事は辛いことだ」と説いた。それを聞いたお釈迦様の弟子達は自殺したり、互いに殺し合って死んだそうではないのか。
更には悟りを開いたお釈迦様の弟子が、その悟りの境地を維持するのが困難となり、悟りの境地から外れる事に恐怖して自殺したと言うではないか。それでも貴方は自殺は良くないと言うのか。
私は細い目に紫色の炎を灯し、講師のお坊さんを睨んだ。
「私の質問に答えよ、私を納得させてみよ」。そう思って質問の時間を待った。
そしたら、お坊さん、時間いっぱいまで話を続け「それではお時間となりましたので、私の話はこれで終わります。有難うございました」と言ってセミナ-を終えた。
何だよ、それ。投げっぱなしかよ。私の疑問を受け止めてくれないのかよ。
通常のセミナ-では最後に質問のコ-ナ-を設ける。聞く人の疑問点に応えるる。それがセミナ-の鉄則ではないか。マナーではないのか。
私はセミナ-終了後、お坊さんも元に向かい質問すべきか悩んだ。
でも、諦めた。このお坊さんの実家はお寺ではない。つまり自ら望んで僧侶となったのだ。私と同年代だと思うが孫も出来たと言っていた。檀家も増えて忙しい。
暑い中、塩を舐め舐め檀家のお宅を回ってお経をあげていると言っていた。このお坊さんは幸せな人生を歩んでいるのだ。
そんな幸せな人に自殺する者の気持ちが分かってたまるか。分かる訳が無い。分かりたいなら、証券会社で働いてみよ、新聞販売店で働いてみよ。実社会で働いてみよ。病気になってみよ。肉親を自殺や不慮の事故で亡くしてみよ。
辛い人生を歩む者の気持ちが分かっていないから、簡単に自殺は良くないと言っているだけじゃないのか。そんな人に質問しても無駄か。
何か虚しくなって質問するのを止めました。はぁ-、やっぱり仏教では私の苦しみは消えないか。
これだったら臨床心理士の方がよっばと自殺する者の気持ちが分かっている。仏教なんてこの程度か。
はぁ-、虚しい。お坊さんの話でやるせなくなる自分は、かなり追い詰められている。私は仏教では悟れない。救われない。心が重病だ。
まっ、仏教を語るお坊さんも人間。神では無い。人間の心は人それぞれ。人間に期待する私の方が間違っていたのか。
はぁー、虚しい。そう簡単には癒せないな、私の鬱病は。
ではでは。