諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その4

2022年08月10日 22時40分54秒 | 永井直勝
続きです。

戦と言うのは勝つまでが大変ですが、勝ってからも中々大変なんです。味方に付いた家臣や武将に領地と言う恩賞を与えねばなりませんからね。

事実、鎌倉幕府を引き継いだ北条氏も蒙古襲来で滅んだ様なものです。

蒙古に勝っても蒙古の土地を分け与える訳にはいかない。蒙古と戦い勝ったのに恩賞が貰えない。北条氏に従った武家は不満を持つ。

日本の土地は有限です。当時は北海道も無かった。それで織田信長は焼き物に価値を見出して恩賞として与えようとしたが、それが定着する前に明智光秀に討たれた。

明智光秀の領地を取り上げて、他の武将の恩賞として分け与えようとしたが、光秀は納得しなかった。それが元で討たれた部分が確実にあると思います。

豊臣秀吉も朝鮮出兵し、大陸の領地を得て恩賞として分け与えようとしたが、完全に失敗した。

源頼朝もその難しさを熟知していた。長田忠致に美濃と尾張を与えたら、他の有力な武家にもそれ以上の領地を与えねばならん。そんなのは無理だ。

長田親子はよく働いた。しかし親の仇である。言い訳が立つ。殺しても御家人達は納得する筈。

そして1090年。「約束通り、褒美を取らす」として長田親子を呼び出した。そして捕えた。

まっ、ここからも諸説あるんです。平家が滅んだ後に頼朝は兵を出して長田親子を殺そうとしたが、長田親子は逃げ回った。そしてとうとう捕まったとか。

一般的なのは「約束通り褒美として美濃と尾張をくれてやる」と呼び出し、その場で取り押さえ松の木に磔にして処刑したと言うヤツです。長田親子が磔にされた松の木も朽ちてはいますが残っていますしね。

でもねぇ-、今から830年以上前の話なんです。朽ちているとは言え、その松が830年前に磔に出来るほどの太さがあったのか疑問です。多分、観光客目当て??で、誰かがでっち上げたのではないかなぁ-。

私が一番信憑性が高いと思うのは戸板に磔にして道に横たえて、木刀でぶっ叩いたり、爪を剥いだり、顔の皮を削いだりして数日かけて処刑した説です。

何たって頼朝の父・義朝は風呂場で長田親子の兵に襲われて、「せめて木刀の一本でもあれば戦えたものを」と言い残して討たれていますから。その最後の言葉を受けて木刀で殴り殺したのではないかと思います。

それと頼朝が長田親子の処刑に当たって、「約束通り身の終わり(美濃・尾張)をくれてやる」と言ったのも後の創作だと思います。

だって刑場の高札に「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守、身の終わり(美濃・尾張)をぞ今ぞ賜る」と長田忠致の辞世の句が書かれてあったと言うのです。

処刑される前に長田親子が、こんなダジャレの辞世の句を語る訳が無いですよ。

自害ではないのです。大変残酷な処刑の前なのです。ダジャレで笑わせる心境の筈無いじゃないですか。

もし本当にその辞世の句が掲げられていたとしたら、源頼朝がふざけ半分で掲げた。それほどまでに源頼朝は残酷な男なのだと思います。


続く。





コメント (2)
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