諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その7

2022年08月15日 18時13分44秒 | 永井直勝
タイトルから逸脱しているのに気付きながら続きます。

源頼朝の人間形成に置いて重要な出来事と言えば、保元の乱と平治の乱でしょう。

保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇との兄弟間の争いです。覇権闘争と言えます。詳しい経緯は差し控えますが、崇徳上皇が負けてます。讃岐に流されています。

天皇家の場合、戦で敗れても処刑されることはありませんが、武家は大抵は処刑されます。

この保元の乱は源氏・平家をそれぞれ二分した戦いです。

後白河天皇側に着いたのは平清盛と源義朝。

崇徳上皇側に着いたのは平清盛の叔父の平忠正とその息子達の長盛、忠綱、維盛。

そして源氏では源義朝の父の源為義。そして義朝の弟達である頼仲、為成、為仲です。

これらの者達はそれぞれ平清盛、源義朝によって斬首されています。

地獄ですよね。源義朝は父と弟達を斬首した。それを見た源頼朝はどう思ったか。祖父や叔父たちを父が処刑した。そうしなければ源氏は生きられない。

後白河法皇に忠誠を誓う為に殺した。頼朝は後白河法皇に畏怖と憎しみを感じた事と思います。

後白河法皇に父や弟達を殺すほどの忠誠を示した源義朝ですが、保元の乱が収まったら平清盛のみ重用された。

清盛は叔父と従兄弟を殺した。自分は父と弟達を殺した。後白河法皇への忠義は自分の方が示した筈。源氏の方が犠牲を払った。

それなのに平家を重用する後白河法皇。これは義朝でなくても怒りを感じます。

そして源義朝は平治の乱を起こした。結果は平家に敗退。頼朝は父・義朝らと共に命からがら落ちのびた。体力のない頼朝は逃亡中に落伍した。

頼朝の兄であり義朝の次男である朝長は戦で足を射抜かれていた。歩行が困難。逃亡の足手まといになった。それで父に朝長は告げた。「自分を殺して逃げてくれ」と。

そして父に首を討たれた。埋葬されたが平家に朝長の墓を暴かれて首が並べられた。死んでからも辱められた。

仕方が無いとはいえ義朝は次男の朝長を殺した。足手まといになる。ちょっとした切欠が命取りになる時代。それを頼朝は義朝から学んだと思います。

話は逸れましたが、源氏は人殺しの家系の頂点です。頼朝も父・義朝と同じ兄弟殺しを演じた。不安要素は確実に潰しておく。その異常さを見た家臣、御家人たちはどう思うか。

北条氏も源氏の血に恐怖したと思います。そしてその反面、頼朝に倣った。だから二代目鎌倉殿の源頼家も殺せたのだと思います。

しかし、北条家にそこまでの知恵と決断力、そして非情さがあったのか。

平家討伐に抜群の働きを見せた長田親子を、全ての用が済んだら殺した頼朝。その頼朝に全ての御家人は恐怖した。血なまぐさい源氏の血統ではこの世は平穏に統治できない。

実は北条氏は平家の家系です。そして長田親子も平家の家系。そして鎌倉ナンバー2の男・大江広元も平家の血筋です。

不思議な話ですが、長田忠致の兄である長田親致の子孫に徳川家康に仕えた長田伝八郎がいます。そして家康は「義朝を討った長田姓は不吉」と言って、大江広元流に入り永井姓を名乗り永井直勝となった。

長田忠致と大江広元とは接点があったのか。有ったと思えるのです。因幡あたりで。

大江広元は朝廷の下級貴族であったが、長田親子が討たれた後、鎌倉に下った。朝廷とのパイプ役となった。木曽義仲の失敗を踏まない為に頼朝からの信頼も厚かった。

私は北条政子や北条義時にそれ程の知恵があったとは思えません。大江広元がやって来てから行動が鋭利になった。裏で操ったのは大江広元だと思います。

話はとんでもない方向に行ってしまいました。書いてて失敗したなぁーと思っています。

源氏もそうですが、平家も平家同士で仲が悪いのです。長田忠致も元々平清盛との仲が悪かった。だから鎌田政清に娘を嫁がせた。大江広元も平家とは不仲だからこそ鎌倉に下った。

しかし、その目的は源氏打倒だった。長田家とは因幡で接点が有ったと思える。その敵を討ちたかった。

その可能性を証明するのは難しいですが、長田姓の永井直勝が大江流に入った理由が分かれば、その鍵を掴めると思います。


ではでは。








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