続きます。
日本人は蛇と狐を神の使い、或いは神そのものとして信仰してきました。その一因に後ろめたさがあると言えます。
縄文時代、日本人は狩猟や採取によって生活してきた。しかし、それで得られるカロリー摂取量は1万人が限度。それで縄文時代は終了したと言えます。人口が維持できなくなったので。
日本人のカロリーは稲によって賄うしかなかった。しかし、稲は本来は熱帯植物。東北では大量に取れない。
東北は鮭が遡上していたから縄文人が多く住んでいたが、人口増加で鮭だけでは暮らせなくなった。それで稲の栽培に適した西に移動した。
人は山を切り崩して田圃にしたが、その行為に罪悪感を覚えた。自然破壊だから。神の神域を犯す行為だからだ。
そして山を切り崩して逃げる蛇を見た。狐を見た。狼を見た。そして熊を見た。
山に住んでいる蛇、狐、狼、熊は神の使いであり眷属。眷属に対して非礼を犯した。そして祟りを恐れた。それが蛇、狐、狼、熊に対する信仰に変わったと言えます。
特に狐は物理的にであるが、当時の人には超常現象を起こす動物として捉えられた。狐は人を上回る能力を持っている神の使いであるとした。
っとは言え人は狐の性格を知っている。害獣である鼠を食べる善の面もあるが、動物故の執念深さ稚拙さから悪の部分も感じ取った。それ故に人は狐を恐れた。
話を変えます。
数年前、私は福島県天栄村の御鍋神社へ二度目の参拝に向かいました。
前回の参拝は林道を走るに適したアトレー4WDで向かい、難なく参拝が出来ました。しかし、二度目はホイールベースが長いセダンのアリオン。林道を走るには適したいない。仕方なく登山道のクルマ止めに駐車して徒歩で向かいました。
今回はスマホを持っている。スマホのナビを見て歩いた。時間以上歩いて御鍋神社前の砂利の広場に到着した。前回、アトレーを止めた場所だ。そこから下ると直ぐに自然木の鳥居が見える。そして直ぐに御鍋神社がある。
しかし、鳥居も御鍋神社も無かった。スマホナビでは私の地点の真ん前に御鍋神社があるのに、どこにも御鍋神社が無いのである。
私はスマホナビに従って歩いた。それが歩けば歩くほど御鍋神社が遠ざかるのである。
スマホナビが狂っているのかも知れない。それでもう一度砂利の広場に戻った。そしたらスマホナビの御鍋神社がやはり私の真ん前にあるのである。
そしてまた御鍋神社に向かう。やっぱりスマホナビの御鍋神社は遠ざかって行く。私はそれでも歩いた。そしたらスマホナビに示された御鍋神社の地点が小川を超えた場所を示した。
川はあった。浅く細い川だ。でも、前回は川など渡っていない。まるでスマホが私を騙している感じがする。
これは不味い。山では地元民でも急に方向感覚がなくなり遭難することが多いと聞いていた。それで私は御鍋神社に行くのを諦めた。
そのまま進んでいたら多分、山の怪に惑わされ遭難していたと思う。
山は霊場、恐ろしい場所なのだ。
続く。