諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

全ては狐のせいにして生きていた時代。その3

2023年06月25日 16時15分11秒 | 神道
続きです。

何故、御鍋神社参拝で道に迷ったのか。参拝出来なかったのか。

御鍋神社には永井平九郎、平将門公とその側室の桔梗姫を祀っている。永井平九郎は平将門公を諫めた家来。または将門公と桔梗姫との子とされている。

そして私は将門公を討った従兄弟の平良兼の家系に繋がる。同じ家系ではあるが敵対している。だから遠ざけられたのではないかと思える。

前回は畏怖の心で参拝したが、今回は慣れと言うか甘えがあった。許されたと思い込んだ。畏怖の心が足りなかった。それが原因だと思いました。

ただ、こんな事例は山では頻発に起きている。山菜取りで帰れなくなった。登山で迷ってしまった。共に慣れていた山なのに帰れなくなった。

私、テレビで修験道の特集を観たことがあります。日の浅い女性の若い修験者が気分を悪化させた。そのうちにトランス状態に陥った。狂乱した。これは私から見ても狐憑きだと思いました。演技でなければ。

熟練の男性修験者がその女性修験者に九字を切って状態は収まったが、山ではこれに近い状態に誰もが陥る。私もその寸前にあったと思える。

狐憑き。

私の母は認知症を患っているが、これも昔は狐憑きと思われていたのだろう。癲癇もそうだろう。

私の注射恐怖症も狐憑きに入ると思う。注射の恐怖で過呼吸が始まり意識を失う。昔の人は狐憑きと思う筈だ。

山の中は誰しも恐怖感を覚えている。暗くなれば更に強まる。

恐怖は人に幻を見せる。正常な思考が出来なくなる。意識が遠のく。そして狂乱状態となる。

その原因は何か。私は山の怪と呼んでいるが、誰もが山神のせいにはしたくない。神が自分を貶めている。嫌っている。祟っているとは思いたくない。

私は鬱病で心療内科・精神科に通っているし、幻覚を見るアルツハイマー&パーキンソン病患者とも対峙した。全ては脳の病。もしくは脳の萎縮によるものだ。しかし、昔なら狐憑きとなる。

山に入り行方不明になる。それは自分の慢心と勘違いで迷う場合も多い筈だ。

そして村人が自分を捜索して見つけてくれた。その言い訳で「狐に騙された」と言ったら、「それなら仕方がない」と村人も納得する。自分は責められない。

全て狐のせいにすれば言い訳が出来る。自分の責任は回避できる。

山神のせいには出来ない。山神に嫌われているのであれば「山にはもう入るな」と村人達に言われる。それでは生活が出来ない。だから全て狐のせいにするしかなかったと思える。

以上、昔は自分の罪を狐に擦り付けていたと私は結論付けます。

しかし、解明はされているか人を化かし、狐火を発する狐には恐ろしさも感じている。全て狐のせいにする後ろめたさも感じている。

お稲荷様の社が日本で一番多い訳であるが、その理由の一因に狐のせいにする後ろめたさは間違いなくある筈です。

そのままにしては祟られる。だからお稲荷様に参拝する。懺悔する。そして自分の罪を被ってくれた事に対しお礼をする。

その気持ちがお稲荷様信仰に繋がっている部分は確実にあると思います。


ではでは。








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全ては狐のせいにして生きていた時代。その2

2023年06月25日 02時36分16秒 | 神道
続きます。

日本人は蛇と狐を神の使い、或いは神そのものとして信仰してきました。その一因に後ろめたさがあると言えます。

縄文時代、日本人は狩猟や採取によって生活してきた。しかし、それで得られるカロリー摂取量は1万人が限度。それで縄文時代は終了したと言えます。人口が維持できなくなったので。

日本人のカロリーは稲によって賄うしかなかった。しかし、稲は本来は熱帯植物。東北では大量に取れない。

東北は鮭が遡上していたから縄文人が多く住んでいたが、人口増加で鮭だけでは暮らせなくなった。それで稲の栽培に適した西に移動した。

人は山を切り崩して田圃にしたが、その行為に罪悪感を覚えた。自然破壊だから。神の神域を犯す行為だからだ。

そして山を切り崩して逃げる蛇を見た。狐を見た。狼を見た。そして熊を見た。

山に住んでいる蛇、狐、狼、熊は神の使いであり眷属。眷属に対して非礼を犯した。そして祟りを恐れた。それが蛇、狐、狼、熊に対する信仰に変わったと言えます。

特に狐は物理的にであるが、当時の人には超常現象を起こす動物として捉えられた。狐は人を上回る能力を持っている神の使いであるとした。

っとは言え人は狐の性格を知っている。害獣である鼠を食べる善の面もあるが、動物故の執念深さ稚拙さから悪の部分も感じ取った。それ故に人は狐を恐れた。

話を変えます。

数年前、私は福島県天栄村の御鍋神社へ二度目の参拝に向かいました。

前回の参拝は林道を走るに適したアトレー4WDで向かい、難なく参拝が出来ました。しかし、二度目はホイールベースが長いセダンのアリオン。林道を走るには適したいない。仕方なく登山道のクルマ止めに駐車して徒歩で向かいました。

今回はスマホを持っている。スマホのナビを見て歩いた。時間以上歩いて御鍋神社前の砂利の広場に到着した。前回、アトレーを止めた場所だ。そこから下ると直ぐに自然木の鳥居が見える。そして直ぐに御鍋神社がある。

しかし、鳥居も御鍋神社も無かった。スマホナビでは私の地点の真ん前に御鍋神社があるのに、どこにも御鍋神社が無いのである。

私はスマホナビに従って歩いた。それが歩けば歩くほど御鍋神社が遠ざかるのである。

スマホナビが狂っているのかも知れない。それでもう一度砂利の広場に戻った。そしたらスマホナビの御鍋神社がやはり私の真ん前にあるのである。

そしてまた御鍋神社に向かう。やっぱりスマホナビの御鍋神社は遠ざかって行く。私はそれでも歩いた。そしたらスマホナビに示された御鍋神社の地点が小川を超えた場所を示した。

川はあった。浅く細い川だ。でも、前回は川など渡っていない。まるでスマホが私を騙している感じがする。

これは不味い。山では地元民でも急に方向感覚がなくなり遭難することが多いと聞いていた。それで私は御鍋神社に行くのを諦めた。

そのまま進んでいたら多分、山の怪に惑わされ遭難していたと思う。

山は霊場、恐ろしい場所なのだ。


続く。



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