続きです。
何故、御鍋神社参拝で道に迷ったのか。参拝出来なかったのか。
御鍋神社には永井平九郎、平将門公とその側室の桔梗姫を祀っている。永井平九郎は平将門公を諫めた家来。または将門公と桔梗姫との子とされている。
そして私は将門公を討った従兄弟の平良兼の家系に繋がる。同じ家系ではあるが敵対している。だから遠ざけられたのではないかと思える。
前回は畏怖の心で参拝したが、今回は慣れと言うか甘えがあった。許されたと思い込んだ。畏怖の心が足りなかった。それが原因だと思いました。
ただ、こんな事例は山では頻発に起きている。山菜取りで帰れなくなった。登山で迷ってしまった。共に慣れていた山なのに帰れなくなった。
私、テレビで修験道の特集を観たことがあります。日の浅い女性の若い修験者が気分を悪化させた。そのうちにトランス状態に陥った。狂乱した。これは私から見ても狐憑きだと思いました。演技でなければ。
熟練の男性修験者がその女性修験者に九字を切って状態は収まったが、山ではこれに近い状態に誰もが陥る。私もその寸前にあったと思える。
狐憑き。
私の母は認知症を患っているが、これも昔は狐憑きと思われていたのだろう。癲癇もそうだろう。
私の注射恐怖症も狐憑きに入ると思う。注射の恐怖で過呼吸が始まり意識を失う。昔の人は狐憑きと思う筈だ。
山の中は誰しも恐怖感を覚えている。暗くなれば更に強まる。
恐怖は人に幻を見せる。正常な思考が出来なくなる。意識が遠のく。そして狂乱状態となる。
その原因は何か。私は山の怪と呼んでいるが、誰もが山神のせいにはしたくない。神が自分を貶めている。嫌っている。祟っているとは思いたくない。
私は鬱病で心療内科・精神科に通っているし、幻覚を見るアルツハイマー&パーキンソン病患者とも対峙した。全ては脳の病。もしくは脳の萎縮によるものだ。しかし、昔なら狐憑きとなる。
山に入り行方不明になる。それは自分の慢心と勘違いで迷う場合も多い筈だ。
そして村人が自分を捜索して見つけてくれた。その言い訳で「狐に騙された」と言ったら、「それなら仕方がない」と村人も納得する。自分は責められない。
全て狐のせいにすれば言い訳が出来る。自分の責任は回避できる。
山神のせいには出来ない。山神に嫌われているのであれば「山にはもう入るな」と村人達に言われる。それでは生活が出来ない。だから全て狐のせいにするしかなかったと思える。
以上、昔は自分の罪を狐に擦り付けていたと私は結論付けます。
しかし、解明はされているか人を化かし、狐火を発する狐には恐ろしさも感じている。全て狐のせいにする後ろめたさも感じている。
お稲荷様の社が日本で一番多い訳であるが、その理由の一因に狐のせいにする後ろめたさは間違いなくある筈です。
そのままにしては祟られる。だからお稲荷様に参拝する。懺悔する。そして自分の罪を被ってくれた事に対しお礼をする。
その気持ちがお稲荷様信仰に繋がっている部分は確実にあると思います。
ではでは。