ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「国家の品格」 藤原正彦

2007-02-14 09:43:14 | 
神社と聞いて思い浮かべるのは、赤い鳥居かもしれない。緑の森のなかで色合い鮮やかに鎮座する社(やしろ)も印象的だと思う。でも、私がこれまでに見た神社のなかで、最も美しかった神社には色がなかった。

あれは大学一年の春だった。九州は宮崎から熊本を経て鹿児島まで約200キロ余りを徒歩旅行したことがある。WV部の合宿であり、クラブでは里ワンと呼んでいた。もちろん宿泊はテントだから、生活道具一式をキスリングという、横長の巨大なザックにつめての徒歩旅行となる。大体35から40キロ前後の荷になるから、けっこうきつかった。

熊本の盆地を抜けて、鹿児島に入ったあたりだったと思う。その日、私はつまらぬことで苛立ち、不機嫌なまま林道を歩いていた。パーティの皆からは「とんがりコーン」などとからかわれていたが、聞く耳もたず、ムッとしながらひたすら歩いていた。

渓谷を下る途中、水量の減った川を渡渉して中州に渡る。かなり大きな中州で、そのなかの小高い丘の上に、その神社はあった。木の梯子を上り、うっすら茂る草木を掻き分けて辿り着いた。

驚いた。色がなかった。古色蒼然たる神社であったが、近づいてみると赤い塗層の痕跡があった。相当に古い神社だと思われた。風雨に磨かれ、歳月の重みに耐えた威厳が感じられた。しかし、放置されているのではない。枯れ木のような社には、苔や蔦の痕跡はなく、誰かが手入れしていることが窺われる。

少し離れてみると、周囲の木々と調和していて、神々しいほどだ。人工的な色彩がないことが、自然との融合を感じさせ、言葉を失するほどの美しさであった。いつのまにか私は苛立ちを忘れ、穏やかな気持ちになっていた。

数日後、有名な高千穂の神社にも参拝したが、奇麗な朱色で装飾された社には、俗っぽさを感じてしまい、白けてしまった。

表題の本は、昨年ずいぶんと話題になり、私も著者の講演を税理士会の記念大会で拝聴した覚えがある。いろいろ思う事はあるのだが、一番印象的だったのは、日本人の美に関する感性の鋭さを、日本の文化の特徴であると指摘している点だった。論理だけでなく、感性を磨くことが知性や品性を向上させるという主張は、なかなかに重みがあると感じた。

世の中、論理的に正しいだけでは駄目なのだろう。心に響く、感性を奮わせるものがなくては、人は動かないのではないか。日頃、私が感じていた疑問に対する、ひとつの回答だと考えています。
コメント (10)
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