今なら分る。痛いほどに、吐き気がするほどによく分かる。虎になった李徴の気持ちがだ。
初めて読んだ頃は、巷に流布する怪談や伝説の類だと思って読んでいた。三国志以来、中国ものにはまってしまったので、「史記」や「金瓶梅」「柳斎志異」などを好んで読んでいたのだが、当時は意外なくらい、中国ものの本は少なかった。やむを得ず、井上靖や中島敦などを読み漁っていた。十代半ばの頃だと思う。
あの頃の私では、李徴の苦しみが理解できなかった。しかし、長く病に伏せたがゆえに、その苦しみが手に取るように分る。哀しいことに、共感すら出来てしまう。
バブルの最盛期、華やかな時代にはるかに置き去りにされて、私は暗く家に閉じこもった。多くの友人知人が仕事に活躍し、遊びまわった時代。私は失意と絶望とを抱えて、布団に潜り込んで煩悶する日々を送った。
冠婚葬祭以外の付き合いは、すべて断り、世間から忘れ去られることを望んでさえいた。身体が衰弱している以上に、心が病み細り、狂気の縁に身を寄せつつあることを自覚できた。狂ってしまいたかった。狂ってしまえば、これほど悩む必要なないだろうと思っていた。一番辛かったのは、自分の思考が狂気の境界線上をふらついていることを自覚できることだった。
嫌な性格だと思う。昔からそうだ。夢中になっているようで、どこか心の一部が醒めている。熱中しているようで、冷静に判断している。誰もが不安定な心情を抱える思春期でさえ、常にどこか冷静でいる自分がいた。恋心に慌てふためいている時でさえ、現実的な行動をとる。性交に吾を忘れて没頭しているようで、そのくせしっかり時間を把握している。
瞬間的にならまだしも、生涯一度もすべてを忘れて熱中したことはない。原因はおそらくは臆病、あるいは生存本能のなせる業だと思う。凄く嫌な性格だと思う。一度でいい、仕事も常識も見栄も忘れて、なにかに身を投じてみたいと思うが、出来ない気がする。
苦しみのあまりに、思考が狂気の混沌へ彷徨いだしていた時でさえ、それを冷静に観察している自分がいた。これが一番辛かった。狂いきってしまえば、こんな辛さから解放されると思っていた。
歪み捻れて澱んだ醜い私の心根は、いつのまにやら表面に表れていたと思う。鏡に映る我が身の醜さに吐き気がした。誰にも会いたくなかったし、見られたくなかった。
友達の数は激減した。電話も手紙も減った。世間から忘れ去られんとしていた。
そんな私を忘れずにいてくれた奴がいる。手紙をくれたり、旅土産を送ってくれたりと甲斐甲斐しい。会いたかった、話たかった。でも会えなかった、話せなかった。
会えば憎んだと思う。話せば怒鳴ったと思う。好きな奴だから、大事な友達だから、それだけは嫌だった。醜く歪んだ私を知られたくなかった。いや・・・この醜く歪んだ私の正体を知られる勇気がなかったが本当だと思う。
自らの醜い心情から虎へと変貌してしまった李徴が、その姿を友人に見られるのを嫌がった気持ちが手にとるように分る。それでも話さずにはいられない気持ちが、切ないくらいに良く分る。
自分に正直でいられる人が羨ましいと思う。私は正直ではいられない。こんな歪んだ自分では、とてもじゃないが、正直には生きられない。だから、せめて誠実に生きたいと思う。どこまで出来ているかはともかくも。
初めて読んだ頃は、巷に流布する怪談や伝説の類だと思って読んでいた。三国志以来、中国ものにはまってしまったので、「史記」や「金瓶梅」「柳斎志異」などを好んで読んでいたのだが、当時は意外なくらい、中国ものの本は少なかった。やむを得ず、井上靖や中島敦などを読み漁っていた。十代半ばの頃だと思う。
あの頃の私では、李徴の苦しみが理解できなかった。しかし、長く病に伏せたがゆえに、その苦しみが手に取るように分る。哀しいことに、共感すら出来てしまう。
バブルの最盛期、華やかな時代にはるかに置き去りにされて、私は暗く家に閉じこもった。多くの友人知人が仕事に活躍し、遊びまわった時代。私は失意と絶望とを抱えて、布団に潜り込んで煩悶する日々を送った。
冠婚葬祭以外の付き合いは、すべて断り、世間から忘れ去られることを望んでさえいた。身体が衰弱している以上に、心が病み細り、狂気の縁に身を寄せつつあることを自覚できた。狂ってしまいたかった。狂ってしまえば、これほど悩む必要なないだろうと思っていた。一番辛かったのは、自分の思考が狂気の境界線上をふらついていることを自覚できることだった。
嫌な性格だと思う。昔からそうだ。夢中になっているようで、どこか心の一部が醒めている。熱中しているようで、冷静に判断している。誰もが不安定な心情を抱える思春期でさえ、常にどこか冷静でいる自分がいた。恋心に慌てふためいている時でさえ、現実的な行動をとる。性交に吾を忘れて没頭しているようで、そのくせしっかり時間を把握している。
瞬間的にならまだしも、生涯一度もすべてを忘れて熱中したことはない。原因はおそらくは臆病、あるいは生存本能のなせる業だと思う。凄く嫌な性格だと思う。一度でいい、仕事も常識も見栄も忘れて、なにかに身を投じてみたいと思うが、出来ない気がする。
苦しみのあまりに、思考が狂気の混沌へ彷徨いだしていた時でさえ、それを冷静に観察している自分がいた。これが一番辛かった。狂いきってしまえば、こんな辛さから解放されると思っていた。
歪み捻れて澱んだ醜い私の心根は、いつのまにやら表面に表れていたと思う。鏡に映る我が身の醜さに吐き気がした。誰にも会いたくなかったし、見られたくなかった。
友達の数は激減した。電話も手紙も減った。世間から忘れ去られんとしていた。
そんな私を忘れずにいてくれた奴がいる。手紙をくれたり、旅土産を送ってくれたりと甲斐甲斐しい。会いたかった、話たかった。でも会えなかった、話せなかった。
会えば憎んだと思う。話せば怒鳴ったと思う。好きな奴だから、大事な友達だから、それだけは嫌だった。醜く歪んだ私を知られたくなかった。いや・・・この醜く歪んだ私の正体を知られる勇気がなかったが本当だと思う。
自らの醜い心情から虎へと変貌してしまった李徴が、その姿を友人に見られるのを嫌がった気持ちが手にとるように分る。それでも話さずにはいられない気持ちが、切ないくらいに良く分る。
自分に正直でいられる人が羨ましいと思う。私は正直ではいられない。こんな歪んだ自分では、とてもじゃないが、正直には生きられない。だから、せめて誠実に生きたいと思う。どこまで出来ているかはともかくも。