ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「極大射程」 スティーブン・ハンター

2007-05-14 13:28:40 | 
特にあてもなく銀座の町をブラブラ歩いていたら、映画の広告があった。「ザ・シューター」とある。おや?と思い、よくよく見てみると数年前に翻訳されてヒットしたS・ハンターの「極大射程」の映画化だった。ベトナム帰りの名スナイパー(狙撃手)であるボブ・スワガーを主人公にした作品だ。

スナイパーという兵隊が注目されるようになったのは、アメリカ独立戦争に遡る。市民兵を中心としたアメリカ軍は、猟師たちを集めて遠距離射撃によりイギリス軍を苦しめた。率直に言って、当時は、その威力を認めつつも、正規軍のやるべき戦い方とは考えていなかった。そのため、独立後は、その部隊を解散してしまった。

しかし、南北戦争で再び長距離狙撃の威力を認め、その専門の兵隊を養成し、狙撃手を専門職として認めるようになった。これはアメリカにおけるライフル銃の発展とも深く密接している。銃を日常的に使用するアメリカでは、銃器の発達は著しかった。国内の銃器メーカーのみならず、ヨーロッパの銃器メーカーとも新兵器開発競争を激しく行った成果でもある。

第一次世界大戦では、ヨーロッパで膠着した塹壕戦において、遠距離狙撃は兵士達を恐怖に陥れた。第二次世界大戦では、重火器の発達が著しかったが、それでも遠距離狙撃の恐ろしさが衰えることはなかった。敵の姿がみえないと油断していると、突然響く銃声。気が付くと地面に倒れている仲間の兵士が目に付く。いつ、どこから撃たれるか分らない恐怖は、一般の兵士たちの戦意を挫くのに大きく貢献した。

恐るべき戦士である狙撃手だが、実は育成が難しい職種でもある。遠距離狙撃をレクチャーされれば、誰でも一度はスナイパーになれる。遠距離狙撃用のスコープから敵の姿を望み、風向や風力を読み、的確に狙撃するだけなら誰にでも一回は出来る。しかし、自ら引き金をしぼった結果、撃たれて倒れる敵の姿を見て、平静を保つことは誰にでも出来ることではない。2度目の狙撃が出来なくなる兵士の続出に、アメリカ軍首脳は頭を痛めたと聞く。

戦争のなかでの戦闘の一場面でならば、敵と撃ちあい合い、倒れ倒される。しかし狙撃は違う。一方的な殺人行為なのだ。スコープから覗ける、撃たれた敵の驚愕の表情と苦悶して死に伏す姿を見てしまうと、それを正しい行為だと認識することは難しい。遠距離射撃の有効性を認めつつ、それを卑怯だと考えてしまうのは、兵士の自然な感情であるようだ。狙撃手は、一般の兵士たちから畏れられる存在であると同時に、敬遠される存在でもある。孤立に耐えうるタフな精神の持ち主でないと、とても務まる仕事ではない。

そのせいだと思うが、狙撃手はほとんどの場合、孤独を愛する人であることが多い。孤独に耐えられる人でもある。冒険小説などに出てくる狙撃手も、やはり変わり者タイプが多いのも致し方ない気がする。

本作の主人公、ボブ・スワガーも少々変わり者だ。よく言えば職人気質だし、端的には頑固者であり、変人なのかもしれない。それでも、自己の信じる信念に忠実な人でもある。まじめ一徹であった警官である父(別作品の主人公でもある)の影響があるせいか、正義感の強い人間であるために、犯罪者にはならない。

だからこそ、この作品は人気があるのだと思う。傷つき、悩む主人公には申し訳ないが、続編が読みたくなるのが人情というものだ。ここ数年、続編の発刊を強く期待している一ファンとしては、この映画「ザ・シューター」でも観て、我慢するしかなさそうだ。


コメント (13)
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