ヌマンタの書斎

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「紅蓮の女王」 黒岩重吾

2007-05-26 13:30:15 | 
正しさとは、なんなのだろうと悩むことがある。

私は歴史が好きだ。今の自分があるのは、過去の積み重ねがあるからだ。今の日本がこうあるのは、過去の事実の積み重ねがあるからだ。過去を知ることで、今をより深く知ることが出来る。

過去の失敗を学ぶことで、同じ過ちを繰り返す愚を避けることが出来るはず。過去の成功を知ることで、先人の努力に敬意を払い、誇りを抱く幸せを実感できる。文明は進化したかもしれないが、人間の営みはそう変わることなく、今も過去も悲しくも愚かしい所業が繰り返される。文明は進化したかもしれないが、人間の喜びは今も昔もそう変わることはない。

歴史を知ることは、人を知ることであり、そこから学び、省みることは多々ある。だからこそ、面白いし、役にも立つ。

一方、歴史における正しい事実は、基本的には資料によって裏づけされる。だが、その資料は本当に正しいのか?

偽書、捏造、事実誤認は何時の時代にもあったはずだ。意図的に事実を捻じ曲げたことだって、十分ありうる話だ。歴史は勝者によって創られる。敗者の事実は、勝者の都合により、いかようにも書き換えられる。

歴史上の資料を正しいと決め付けてしまうと、過去の真実が必ずしも正確に伝わらないはずだ。だからこそ、複数の資料から、多面的に検証して、真実の姿を推測する作業が必要となる。

だが、資料が少ない時代がある場合、その検証作業はいささか難しいものとなる。その数少ない資料を絶対視しがちとなる。なかでも学者という人たちは、間違いを嫌う。あやふやなものは排除する傾向が強い。その結果、古代日本史は、資料(日本書紀等)べったりの解釈の余地の少ない事実の羅列的歴史となってしまう。これは唯物史観の悪影響でもある。

これが面白くない。歴史を学び始めた中学生の頃から、なんとなく古代日本史は好きでなかった。なぜ、そうなったのか、さっぱり分からない。実感が涌かない。現代であろうと、1500年前であろうと、人間の考え方なんざそう変わりはしない。1500年昔なら、当時の人間たちの常識なり慣習があり、それが現代のものと違うことは分かる。分かるが、だとしても、これほどツマラナイ話であるはずがない。

歴史好きを自認していた私だが、古代日本史は実にツマラナイ授業であった。なぜ仏教が政争の争点なのか、なぜこれほど遷都するのか、なぜ皇位が不自然に異動するのか。教科書を読んでも、さっぱり理解出来なかった。

ところが歴史小説は面白かった。作家というものは面白いもので、資料が少ないことを逆手に取った。資料が少ないからこそ、想像の翼を広げて、現代人にも理解、共感できる小説に仕立て上げた。表題の作品は、女帝として知られる推古天皇の、天皇につくまえの姿を描いている。

推理小説家として知られた黒岩氏の描く炊屋姫(後の推古天皇)と、その後見人である蘇我氏の暗躍ぶりを読むと、当時の権力闘争の姿が鮮やかに浮かび上がってくる。史実としての信憑性はともかくも、このようなドラマがあってもおかしくないと読者を納得させるだけのものはあると思う。とりわけ炊屋姫の燃え上がる恋情の激しさは、読む者を惹きつけてやまない。

資料が少なく事実関係を羅列するだけの歴史教科書を読めば、むしろ歴史嫌いを育ててしまうと思う。それくらいなら、フィクションとしての位置づけで十分だから、歴史の授業に小説を活用するほうが、よっぽど歴史教育になると思う。
コメント (8)
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