私は仕事柄、企業の倒産に立ち会うことがままある。
倒産を勧めたこともあるし、倒産の直前に知らされ大慌てで駆けつけ事後策に追われたこともある。時には倒産後までも関った経験もある。楽しい思いなど、まったくない。
それでも、誰かがやらねばならぬことであり、それまでの付き合いからも使命感をもって望むようにしている。率直に言って、労多くして実りの少ない仕事だ。労の大半は、精神的な疲労となる。
景気の良かった頃を知るだけに、失意が諦念に変わり、やがて開き直る様は、見ていて楽しいものではない。債権者からの罵詈雑言には耐えられても、身内からの誹謗中傷は心底傷つくものだ。人の心の醜い面を、何度となく見せ付けられたものだ。
逃げるは容易く、踏み止まるこそ艱難辛苦の道が待ち受ける。
250年近く続いた徳川幕府の最後に立会い、その幕引きに少なからぬ役を演じた一人が、勝海舟だった。御家人の一人として、本来徳川幕府を守る立場にありながら、日本の行く末を案じ、そのために敢えて徳川幕藩体制の幕引きを裏で演じた裏切り者との非難は、そう的外れでない。少なくとも海舟本人はそう自覚していたようだ。
喩えていうなら、業績が悪化した企業の役員でありながら、その企業を倒産させて、ライバル企業に市場を引き渡した卑劣漢なのだろう。非難されても致し方ないが、この役員は企業という視点に縛られず、日本におかれた立場、その企業の果たすべき役割、そしてそれが可能かどうかまでを考えて行動したのではないか。
敵方である薩長側から非難されるばかりでなく、味方であるはずの幕臣からも疎んじられた、損な立場の人だった。同じ立場にあった大久保一翁が誹謗されることが少なかったのに比して、随分と罵られたのは本人が言う通り人望の無さが原因なのだろう。もっとも、この御仁自ら望んで憎まれ役を買って出た感は否めない。
福沢諭吉を筆頭に、随分と嫌われた御仁だが、明治も半ばに入り徳川家と天皇家の和解の場を設けると、安心したのかあっさりと死んでしまったのが印象に深い。
結果的にみれば、勝海舟の主導による比較的平和な政権交替劇は、日本の近代化に益したと言えると思う。もし仮に徳川幕府と薩長側との血で血を洗う戦闘を江戸でも行っていたら、経済的損失以上に人心を失してしまったと思う。下手すればフランスやイギリスの植民地としての分割統治の対象になった可能性もゼロではない。
欧米の帝国主義が合い争う世情を知っていた勝海舟ならばの、苦渋の判断であったのだろう。氷川清話などを読むと、家族からも厭われていたようだが、その功績を思えば少々哀れに思わないでもない。幕末から明治の人が非難的なのに反し、後世の歴史家、小説家は勝海舟を見直すことが多い。時代小説を多く発表している童門冬二氏もその一人だと思う。
本人が辞世の句で謳っているように、分かる人に分かってもらえれば俺は満足さ、が本音なのだろうと思う。素直に憧れる生き方ではないが、敬意は払いたいと思う。このような覚悟があってこそできた偉業なのだから。
倒産を勧めたこともあるし、倒産の直前に知らされ大慌てで駆けつけ事後策に追われたこともある。時には倒産後までも関った経験もある。楽しい思いなど、まったくない。
それでも、誰かがやらねばならぬことであり、それまでの付き合いからも使命感をもって望むようにしている。率直に言って、労多くして実りの少ない仕事だ。労の大半は、精神的な疲労となる。
景気の良かった頃を知るだけに、失意が諦念に変わり、やがて開き直る様は、見ていて楽しいものではない。債権者からの罵詈雑言には耐えられても、身内からの誹謗中傷は心底傷つくものだ。人の心の醜い面を、何度となく見せ付けられたものだ。
逃げるは容易く、踏み止まるこそ艱難辛苦の道が待ち受ける。
250年近く続いた徳川幕府の最後に立会い、その幕引きに少なからぬ役を演じた一人が、勝海舟だった。御家人の一人として、本来徳川幕府を守る立場にありながら、日本の行く末を案じ、そのために敢えて徳川幕藩体制の幕引きを裏で演じた裏切り者との非難は、そう的外れでない。少なくとも海舟本人はそう自覚していたようだ。
喩えていうなら、業績が悪化した企業の役員でありながら、その企業を倒産させて、ライバル企業に市場を引き渡した卑劣漢なのだろう。非難されても致し方ないが、この役員は企業という視点に縛られず、日本におかれた立場、その企業の果たすべき役割、そしてそれが可能かどうかまでを考えて行動したのではないか。
敵方である薩長側から非難されるばかりでなく、味方であるはずの幕臣からも疎んじられた、損な立場の人だった。同じ立場にあった大久保一翁が誹謗されることが少なかったのに比して、随分と罵られたのは本人が言う通り人望の無さが原因なのだろう。もっとも、この御仁自ら望んで憎まれ役を買って出た感は否めない。
福沢諭吉を筆頭に、随分と嫌われた御仁だが、明治も半ばに入り徳川家と天皇家の和解の場を設けると、安心したのかあっさりと死んでしまったのが印象に深い。
結果的にみれば、勝海舟の主導による比較的平和な政権交替劇は、日本の近代化に益したと言えると思う。もし仮に徳川幕府と薩長側との血で血を洗う戦闘を江戸でも行っていたら、経済的損失以上に人心を失してしまったと思う。下手すればフランスやイギリスの植民地としての分割統治の対象になった可能性もゼロではない。
欧米の帝国主義が合い争う世情を知っていた勝海舟ならばの、苦渋の判断であったのだろう。氷川清話などを読むと、家族からも厭われていたようだが、その功績を思えば少々哀れに思わないでもない。幕末から明治の人が非難的なのに反し、後世の歴史家、小説家は勝海舟を見直すことが多い。時代小説を多く発表している童門冬二氏もその一人だと思う。
本人が辞世の句で謳っているように、分かる人に分かってもらえれば俺は満足さ、が本音なのだろうと思う。素直に憧れる生き方ではないが、敬意は払いたいと思う。このような覚悟があってこそできた偉業なのだから。