何度か書いているが、私は男女平等なんて全く信じていない。
そもそも人は皆、平等であると思っていない。男であろうと女であろうと、はたまた老人であろうと、子供であろうと優秀ならば、是非とも活用すべきだと考えている。つまり機会均等という意味での平等は信じているが、各人の能力が平等であるなんて、まったく思っていない。
そもそも権利には義務が伴う。生まれついての権利だとの主張はあるが、その権利を認めてもらうには、やはり義務の履行が伴うのが当然だと思う。
平等なのだから、男も女も同じ役割を担うべきだとの意見があるのは承知している。しかし、私は机上の空論だと思う。
私は十代の頃は、山登りに夢中だったが、男女一緒に登ることが多かった。日帰りや山小屋泊の登山では、ほとんど男女差を設ける必要はなかった。しかし、背負う荷の重量がはるかに重くなるテントを用いての長期縦走登山では、はっきりと男女に差を設けた。
例えば2週間の縦走登山だと、男子は40キロ、女子は30キロの重さになるようザックを調整した。これは体力というか、背筋力の違いが大きな要因となる。平均的にみて、背負えるザックの重量は、背筋力の三分の一程度が望ましい。運動部系のクラブに属する男子なら、背筋力は120から150キロ程度はあるから、40キロのザックを背負うのはそう大変ではない。
しかし平均的な背筋力が100キロに届かぬことが少なくない女子に、男子と同じ重さのザックを背負わせることは望ましくない。鍛えれば可能な重さだが、相対的に筋肉の少ない女性に、男子と同じ重量を負荷させるのは、むしろ全体の行動ペースを落とさざる得なくなり、不合理だったからだ。
実のところ、肉体的苦痛に対する耐性は、概ね女性のほうが高い。40キロを背負わせても、歩くペースは落ちるが耐えられる。しかし、結果として腰痛の原因になることが多く、故障を多く発生させてしまう。皮肉なことに、男子は苦痛が過ぎると、すぐ根を上げる。だから故障するほどは、頑張らない男子が多い。ところが、女性は故障するまで耐えてしまう。怪我をするために、山に行くわけではないので、これでは困る。だから背負うザックの重さに、男女差を設けた。
やはり、身体の造りが違うのだから、差を設けることが必要な場合もある。筋力は落ちることが多い女性だが、精神的な耐性は、概ね男性より高いと思っている。たとえば、吹き荒れる風雪などの困難に直面した場合、まず精神的にバテるのは、たいがいが男子からだった。
一時間で200メートル進むのがやっとの藪山でのことだ。みぞれ交じりの雨に降られ、肉体的疲労と精神的絶望を抱えて、ビバークしたことがある。サブリーダーだった私が2時間かけて、谷を下って水を汲み戻ってきた時だった。
テントに入ると、男子たちはでかい身体を丸めて落ち込んでいる。まあ、落ち込むのは無理もない。この藪を抜けるには、後3日はかかるのが明白だったからだ。周囲には人跡はなく、避難路もない。進むか戻るかの至難のコースなのだから。
ところがだ、小柄な女の子たち3人は賑やかだ。テントの奥で化粧道具を持ち出して、なにやら騒がしい。どうも、藪でお肌に傷がついたのが、気に召さない様子でリーダーに文句言っている。リーダーが苦笑しながら、なだめていた。全然落ち込んでいない。それどころか、元気一杯に半ば遭難状態を楽しんでいた。
重い荷物を持てない小柄な女の子が3人もいたので、わざわざ体力のある大柄な男子を選んだつもりだったが、結果的に強かったのは小柄な女の子たちだった。
表題の作品は、ジャック・ヒギンズお得意のDデイもの。素人女性をスパイとして送り込む英国情報部の残酷な決断は、男女平等を貪欲に活用する。戦争に勝つという目的のためなら、男だろうと女だろうと情け容赦なく使い捨てる。紳士の国イギリスの、男女平等感のありようが、透けて覗けるから怖い。
男女平等を主張するのは容易い。しかし、その結果として課せられる責務の重さも、当然に男女の差はない厳しさを覚悟する必要がある。使い捨てにされるスパイが女性である場合、その結末は悲惨である場合が多い。だからこそ、軍の命令に逆らう主人公が、冒険小説には必ず出てくるのだろう。もっとも、この作品のヒロインは、素人ながら一筋縄ではいかない女傑だ。
はっきり言うと、ヒギンズの冒険小説としては低調だと思う。それなのに記憶に残っているのは、ヒロインの素人臭い頑張りが好印象だからだ。低調なのは、悪役が悪役に徹しきれてないからだ。ヒギンズ先生、なにを迷っていたのだろう?
そんな訳で、あまりお勧めできないヒギンズ作品なのです。
そもそも人は皆、平等であると思っていない。男であろうと女であろうと、はたまた老人であろうと、子供であろうと優秀ならば、是非とも活用すべきだと考えている。つまり機会均等という意味での平等は信じているが、各人の能力が平等であるなんて、まったく思っていない。
そもそも権利には義務が伴う。生まれついての権利だとの主張はあるが、その権利を認めてもらうには、やはり義務の履行が伴うのが当然だと思う。
平等なのだから、男も女も同じ役割を担うべきだとの意見があるのは承知している。しかし、私は机上の空論だと思う。
私は十代の頃は、山登りに夢中だったが、男女一緒に登ることが多かった。日帰りや山小屋泊の登山では、ほとんど男女差を設ける必要はなかった。しかし、背負う荷の重量がはるかに重くなるテントを用いての長期縦走登山では、はっきりと男女に差を設けた。
例えば2週間の縦走登山だと、男子は40キロ、女子は30キロの重さになるようザックを調整した。これは体力というか、背筋力の違いが大きな要因となる。平均的にみて、背負えるザックの重量は、背筋力の三分の一程度が望ましい。運動部系のクラブに属する男子なら、背筋力は120から150キロ程度はあるから、40キロのザックを背負うのはそう大変ではない。
しかし平均的な背筋力が100キロに届かぬことが少なくない女子に、男子と同じ重さのザックを背負わせることは望ましくない。鍛えれば可能な重さだが、相対的に筋肉の少ない女性に、男子と同じ重量を負荷させるのは、むしろ全体の行動ペースを落とさざる得なくなり、不合理だったからだ。
実のところ、肉体的苦痛に対する耐性は、概ね女性のほうが高い。40キロを背負わせても、歩くペースは落ちるが耐えられる。しかし、結果として腰痛の原因になることが多く、故障を多く発生させてしまう。皮肉なことに、男子は苦痛が過ぎると、すぐ根を上げる。だから故障するほどは、頑張らない男子が多い。ところが、女性は故障するまで耐えてしまう。怪我をするために、山に行くわけではないので、これでは困る。だから背負うザックの重さに、男女差を設けた。
やはり、身体の造りが違うのだから、差を設けることが必要な場合もある。筋力は落ちることが多い女性だが、精神的な耐性は、概ね男性より高いと思っている。たとえば、吹き荒れる風雪などの困難に直面した場合、まず精神的にバテるのは、たいがいが男子からだった。
一時間で200メートル進むのがやっとの藪山でのことだ。みぞれ交じりの雨に降られ、肉体的疲労と精神的絶望を抱えて、ビバークしたことがある。サブリーダーだった私が2時間かけて、谷を下って水を汲み戻ってきた時だった。
テントに入ると、男子たちはでかい身体を丸めて落ち込んでいる。まあ、落ち込むのは無理もない。この藪を抜けるには、後3日はかかるのが明白だったからだ。周囲には人跡はなく、避難路もない。進むか戻るかの至難のコースなのだから。
ところがだ、小柄な女の子たち3人は賑やかだ。テントの奥で化粧道具を持ち出して、なにやら騒がしい。どうも、藪でお肌に傷がついたのが、気に召さない様子でリーダーに文句言っている。リーダーが苦笑しながら、なだめていた。全然落ち込んでいない。それどころか、元気一杯に半ば遭難状態を楽しんでいた。
重い荷物を持てない小柄な女の子が3人もいたので、わざわざ体力のある大柄な男子を選んだつもりだったが、結果的に強かったのは小柄な女の子たちだった。
表題の作品は、ジャック・ヒギンズお得意のDデイもの。素人女性をスパイとして送り込む英国情報部の残酷な決断は、男女平等を貪欲に活用する。戦争に勝つという目的のためなら、男だろうと女だろうと情け容赦なく使い捨てる。紳士の国イギリスの、男女平等感のありようが、透けて覗けるから怖い。
男女平等を主張するのは容易い。しかし、その結果として課せられる責務の重さも、当然に男女の差はない厳しさを覚悟する必要がある。使い捨てにされるスパイが女性である場合、その結末は悲惨である場合が多い。だからこそ、軍の命令に逆らう主人公が、冒険小説には必ず出てくるのだろう。もっとも、この作品のヒロインは、素人ながら一筋縄ではいかない女傑だ。
はっきり言うと、ヒギンズの冒険小説としては低調だと思う。それなのに記憶に残っているのは、ヒロインの素人臭い頑張りが好印象だからだ。低調なのは、悪役が悪役に徹しきれてないからだ。ヒギンズ先生、なにを迷っていたのだろう?
そんな訳で、あまりお勧めできないヒギンズ作品なのです。