ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

学校ファシズムを蹴っとばせ 森毅

2009-06-02 12:59:00 | 
小学生の頃から、時折先生に嫌われることがあった。

なぜか知らぬが、よく怒られた。職員室に呼ばれる常習犯であり、親が呼び出されたことも再三あった。ところが理由がよく分らない。分らないから、神妙な顔つきで怒られはするが、私は反省なんざしたことがない。悪いことをしたとの自覚が皆無であったからだ。

理由がわかるようになったのは、呆れたことに30代も後半に入ってからだった。教える側にまわってみて、なるほどと思った。

私は幼い頃から、関心がないことに対しては、まったく冷淡であった。学校に対して目的意識はなかったから、教室で座っていること自体が苦痛で仕方なかった。そんな時、私は目を開けたままで夢をみていた。つまり夢想していたわけだ。

顔は黒板に向け、ぼぅっとしたまま、脳裏に描くのは林のなかのクヌギの木に集う虫たちであったり、はたまた用水路にうごめく魚や水棲昆虫であった。教室にいながらにして、森や野山に意識をとばし、夢想の世界にこもることが得意な子供であった。

私は騒ぐわけでもなく、また他人に迷惑をかけるわけでもないのだから、これでいいと思い込んでいた。

しかし、先生の立場からすると私のような存在は、実に目障りであったのだと分った。教える立場からすると、自分が一生懸命話していることに関心を持たない生徒は、迷惑である以上に不愉快な存在であった。教師としての矜持を傷つける存在でもある。

だからこそ私は嫌われたのだろう。しかしだ、私はすべての先生に嫌われた訳ではない。むしろ積極的に評価されたことも少なくなかった。そんな先生の授業は面白く、私は目を輝かせて夢中になって聴いていた。

私は自分がこの先生の話は聴くに値すると自覚した時は、周囲が驚くほど良い子であった。では、そうでない先生は駄目な先生だったのか?

ここらへんが難しいところだ。私以外のクラスメイトたちには、そう悪い先生ではなかった気がする。教科書を素直に学ぶ意識に欠けていた私のほうが特殊だったのだと思う。今にして思うと、枠にはめ込むような授業には興味が持てず、私の興味を引き出してくれるような授業をしてくれる先生の話しには耳を傾けていたように思う。

実際、私は自分が興味をもったことには、言われなくとも勉強する一方で、そうでないことからは逃げる傾向が強かった。呆れたことに大学まで、この傾向は続いた。大学受験なんぞ、世界史と国語だけで合格したようなものだ。

興味のないことを相応に勉強したのは、中三から高校2年ぐらいまでだと思う。そして、今にして思うと、その嫌々やっていた勉強は、決して無駄ではなかったと確信している。もっともその確信は、30過ぎてから自覚しているのだから、いささか遅きに失した気もする。

表題の本は、ユーモア溢れる数学者として知られる森先生の教育に関するエッセイだ。薄い文庫本だが、中味は濃い。思うことがありすぎて、何を書いたらいいか迷ったぐらいに、中味が豊富。学生運動華やかな頃に書かれただけに、今の風潮とはいささか異なるが、なかなか刺激になる一冊でした。機会がありましたら是非どうぞ。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする