専門家というものは、ある意味でバカである。
すなわち専門バカである。バカでなければならない。バカといわれるほど、その分野に精通していることは、ある意味誇りでもある。
私とて専門家の端くれだ。でもまだまだ専門バカと呼ばれるには研鑽が足りない。勉強すべきことは数多ある。仕事の忙しさに追われて勉強が十分出来ないと、愚痴ること自体恥なのだ。勉強する時間を創ることも、専門家としては義務なのだ。
しかし、その一方で専門バカであることのデメリットもあることは、当然であり必然でもある。その知識は過去の積み重ねにより作られたものだ。過去を基準に今を推し量る知識でもある。過去と今が変わったとしても、過去を基準にすることを求められた知識でもある。今の常識では納得がいかなくなることが生じやすいのも当然なのだ。
また特定の分野に偏った知識であるがゆえに、専門知識が深く狭くなればなるほど、バランスのとれた識見とは縁遠くなることも避けられぬのは、認めなければならない現実だ。
実はもう一つ、専門家として心の片隅に留めておかねばならぬことがある。それは、人間とは間違える生き物だということだ。
そう、人間は間違える。誤解、見過ごし、錯誤、勘違い、誤認と理由はなんでもいいが、人間は必ず間違える。間違えることのない人間なんぞ、絶対に存在しない。
しかし、専門家として高度であればあるほど、権威として確固たるものであればあるほど、自らの過ちを認めがたくなる。ましてや、人の生き死に関る立場の専門家であれば、自らの過ちを認めることは断固として認めがたい。
専門家というものは、その知識が深いゆえに孤独でもある。その知識が高度であるがゆえに孤立しがちでもある。それで良いのだと納得しているが、社会における一人の人間として、それで良いのかと悩むことも少なくない。
今年から始まった裁判員制度に批判の声が上がるのは当然だと思う。これまで専門家にまかせておけばいいと思っていた裁判に、素人である自分が関るなんて、そんな恐ろしいこと出来るわけがない。そう恐れることは自然であり、当然だと思う。
しかし、それでも裁判員制度は試してみる価値がある。何故なら司法の専門家たちが、あまりに専門バカでありすぎているからだ。裁判官も、弁護士も、検事もその道の専門家でありすぎて、社会全般の常識と乖離しすぎる傾向がある。
そんな判決、オカシイ!
抗議の声が何度となく上がるが、無視され続けた司法の実態。司法関係者自身が悩んだ末に、外部の声を、普通の庶民の声を聞きたいと願って生まれた制度が裁判員制度だ。
司法が存在するのは何の為なのか。限られた少数の専門家のための制度ではない。あくまで、法による統治の綻びを縫うための装置としての司法なのだ。専門家だけが理解できるものであってはならない。国民誰もが、納得ができる判決がでる司法の場でなければならない。
民主主義国家でなければ、私は裁判員制度なんて不安定な制度はいらないと思う。しかし、民主主義を掲げる以上、国民が政治に関ることは義務である。忘れちゃいけない、司法は政治の役割の一つであることを。そして人間は間違えるものだ。裁判官だって、弁護士だって、検事だって間違える。
それをチェックする役割を果たすことは、民主主義の国民である以上義務だと思う。司法を専門家に任せすぎたことが、今日の司法機能に齟齬をきたすことになった。その現実を国民も知るべきだと思う。
多分、ビックリすることが多々あると思う。あまりの書類の多さにおののくかもしれない。裁判が書類と書類の戦いである現実に赴Cづくかもしれない。きっと、沢山のトラブルが出ることだと思う。
それでも、やってみる価値はある。十二分にあると思う。外野から批難するのは容易いが、当事者として現実にやるべきことを為す事は難しい。良い社会、良き司法、良き裁判を望むののなら、自分もまたその一助になれることは義務であると同時に、権利でもある。大事に育ててみたい制度だと、私は考えています。
すなわち専門バカである。バカでなければならない。バカといわれるほど、その分野に精通していることは、ある意味誇りでもある。
私とて専門家の端くれだ。でもまだまだ専門バカと呼ばれるには研鑽が足りない。勉強すべきことは数多ある。仕事の忙しさに追われて勉強が十分出来ないと、愚痴ること自体恥なのだ。勉強する時間を創ることも、専門家としては義務なのだ。
しかし、その一方で専門バカであることのデメリットもあることは、当然であり必然でもある。その知識は過去の積み重ねにより作られたものだ。過去を基準に今を推し量る知識でもある。過去と今が変わったとしても、過去を基準にすることを求められた知識でもある。今の常識では納得がいかなくなることが生じやすいのも当然なのだ。
また特定の分野に偏った知識であるがゆえに、専門知識が深く狭くなればなるほど、バランスのとれた識見とは縁遠くなることも避けられぬのは、認めなければならない現実だ。
実はもう一つ、専門家として心の片隅に留めておかねばならぬことがある。それは、人間とは間違える生き物だということだ。
そう、人間は間違える。誤解、見過ごし、錯誤、勘違い、誤認と理由はなんでもいいが、人間は必ず間違える。間違えることのない人間なんぞ、絶対に存在しない。
しかし、専門家として高度であればあるほど、権威として確固たるものであればあるほど、自らの過ちを認めがたくなる。ましてや、人の生き死に関る立場の専門家であれば、自らの過ちを認めることは断固として認めがたい。
専門家というものは、その知識が深いゆえに孤独でもある。その知識が高度であるがゆえに孤立しがちでもある。それで良いのだと納得しているが、社会における一人の人間として、それで良いのかと悩むことも少なくない。
今年から始まった裁判員制度に批判の声が上がるのは当然だと思う。これまで専門家にまかせておけばいいと思っていた裁判に、素人である自分が関るなんて、そんな恐ろしいこと出来るわけがない。そう恐れることは自然であり、当然だと思う。
しかし、それでも裁判員制度は試してみる価値がある。何故なら司法の専門家たちが、あまりに専門バカでありすぎているからだ。裁判官も、弁護士も、検事もその道の専門家でありすぎて、社会全般の常識と乖離しすぎる傾向がある。
そんな判決、オカシイ!
抗議の声が何度となく上がるが、無視され続けた司法の実態。司法関係者自身が悩んだ末に、外部の声を、普通の庶民の声を聞きたいと願って生まれた制度が裁判員制度だ。
司法が存在するのは何の為なのか。限られた少数の専門家のための制度ではない。あくまで、法による統治の綻びを縫うための装置としての司法なのだ。専門家だけが理解できるものであってはならない。国民誰もが、納得ができる判決がでる司法の場でなければならない。
民主主義国家でなければ、私は裁判員制度なんて不安定な制度はいらないと思う。しかし、民主主義を掲げる以上、国民が政治に関ることは義務である。忘れちゃいけない、司法は政治の役割の一つであることを。そして人間は間違えるものだ。裁判官だって、弁護士だって、検事だって間違える。
それをチェックする役割を果たすことは、民主主義の国民である以上義務だと思う。司法を専門家に任せすぎたことが、今日の司法機能に齟齬をきたすことになった。その現実を国民も知るべきだと思う。
多分、ビックリすることが多々あると思う。あまりの書類の多さにおののくかもしれない。裁判が書類と書類の戦いである現実に赴Cづくかもしれない。きっと、沢山のトラブルが出ることだと思う。
それでも、やってみる価値はある。十二分にあると思う。外野から批難するのは容易いが、当事者として現実にやるべきことを為す事は難しい。良い社会、良き司法、良き裁判を望むののなら、自分もまたその一助になれることは義務であると同時に、権利でもある。大事に育ててみたい制度だと、私は考えています。