ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

デーモンナイト J・M・ストラジンスキー

2009-06-25 12:57:00 | 
私のホラー小説好きの原点は、子供の頃の愛読書であった「世界民話集」にこそある。

日本のみならず、シナ、ロシア、アジア、インド、アフリカ、南米、そしてヨーロッパと世界各地の民話を集めた本で、10巻以上あったと思うが、引越しの際のドサクサに紛れて、どこにいったか分らない。

その本のなかでは、民衆を苦しめる様々な妖怪、化け物、悪神などが出てきたが、どの民話でも人間と絶対的に対立する悪の存在としての妖怪変化は、ほとんどなかった気がする。

人々を苦しめる疫病、天災、いがみ合いなどの原因として、悪い妖怪が想像されたのは分る。しかし、疫病は人間を絶滅させはしないし、天災は新たな環境を切り開く要因ともなる。いがみ合いを解決した後には、新たな友好関係が築かれるかとも珍しくない。

嫌な奴だって、状況が変われば良い奴になることは珍しくない。人々が民話で神や妖怪を創造する際、モデルにするのは人間である以上、絶対的悪としての存在はむしろ珍しいものとなる。

表題の本に出てくるような、絶対悪としての存在。人間とは決して相容れない邪悪な存在は、人間の歴史のなかでは比較的新参者だと思う。

敢えて断言させてもらうと、このような絶対悪の存在を創ったのは一神教だと思う。もっといえば、自らの絶対善を強調するためには、絶対悪としての存在が必要だったのだろう。

絶対的な存在があることは、絶大なる安心につながる。それゆえに、絶対神を信仰の柱とする意義は分らなくもない。元キリスト教徒だから分るが、神に絶対的に帰依することで得られる心の安静は確かに存在する。

ただ、今は絶対神への全面的な帰依には、いささか疑問がある。神と人間との間の直接的なつながりなら、私は否定しない。しかし神と人との間に教団の教祖様とか、霊的指導者を自称する人間を介在させることに、どうしても否定的にならざるえない。

なぜなら神の絶対性を、それらの人間に利用される感を否めないからだ。「神が欲したもう」と称して、自らの欲望を充足した宗教指導者は、必ず居たと私は思う。彼らは決して認めはしないが、さりとて神の意図を証明することもできまい。

私は絶対的な神様よりも、泣いたり笑ったり、ヘマをしたり怒ったりする神様のほうが人間くさくて好きだな。絶対的な悪役をたてることにより、絶対的な善を強調するやり方には、どうも素直に共感できません。

表題のホラー小説は、絶対的な悪の存在を背景にしているだけに、私としてはいささか反感がないわけではない。しかし、迷い戸惑う人間たちを上手くちりばめている点は好感が持てる。ホラーとしては、いささか良識的過ぎると思わないでもないが、その分読みやすいものになっている。

本音を言えば、一般向けを狙いすぎて、ホラーとしては物足りない。まあ、そこそこ楽しめる作品ではありますがね。
コメント (2)
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