ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

神々の岩壁 新田次郎

2009-06-05 12:19:00 | 
目の前に聳え立つ岩壁に魅入られた。

谷川岳の名前を耳にしたことのない日本人は滅多にいないと思う。日本屈指の大岩壁をもつ山で、世界屈指の遭難死者数を数える山でもある。

上野から上越線に揺られ、やがて新潟との県境ちかくで地下深くに掘られたトンネルに潜る。そのトンネルの途中にある駅が土合(どあい)だ。山の奥底深くに掘られた地下駅であり、うっすらと湿気を帯びた空気がひんやりと感じる不思議な駅だ。

駅のホームから地上までは、長い長い階段を登る。本当に長い。いささかげんなりする頃に、ようやく地上の明かりが目を瞬かせる。タクシーで一の倉の林道終点まで行く。途中同行する先輩から、上を見るな、下を見ていろと命じられた。

意味はよく分らなかったが、そこは大学体育会の世界。理不尽な命令でも従わざるえない。でも、これはいじめやしごきではなかった。

先輩から「もう上を見ていいぞ」と言われて、顔を上げるとビックリ。一の倉の岩壁が目の前に広がっていた。思わず声を呑み、口をポカンと空けてしまうほどの迫力ある光景だった。

この岩壁に多くのクライマーが挑み、栄光の登頂と非業の登攀を繰り返したことは私でも知っていた。当時すでにここで死んだクライマーは500人を越えていたはずだ。

おそらくは、世界で最もクライマーの命を飲み込んだ岩壁が、この一の倉だと思う。この目で見る前は、なぜ危険とわかっていながら挑むのかと不思議に思っていた。しかし、こうして眼前にその岩壁を見てしまうと、その魅力が分った。いや、魅入られたといっていい。

ただWV部では登攀は禁止であった。だから現役引退である4年まで我慢した。その後、プロクライマーである森氏の指導を得てクライミングの練習を始め、めきめき技量を上げた。半年もたたぬうちに一の倉に挑む機会を得た。

もともとフリークライムには自信はあったが、さすがにここでは人工登攀(エイド・クライム)を中心に登攀することとなった。残暑というより秋の快晴が気持ちイイ岩壁を快調に登り、岩壁部分を終えて悪名高い草付き帯にとりかかった。

ここが地獄だった。ほぼ60度程度の傾斜なのだが、土の壁を登ることになる。草の根っ子の部分を押さえるように掴み、這い上がるように登る。固い岩ならガッシリつかめばいい。しかし土の壁はそうはいかない。傾斜がゆるくとも、ずり落ちるイメージが脳裏に浮かび、どうしても恐怖の思いに捕まれてしまう。

今でも目を閉じると思い出せるが、足元の土がずりずりと崩れるなか、必死の想いで身体を這いずり上げる。オーバーハングの岩壁を登るより、はるかに怖い。時間にすれば短かったが、私としては一番恐ろしい登攀だった。

トップを登る森氏も、稜線に上がると安堵の表情を隠さない。一の倉登攀というコース・ツアー(当然、有料)だから草付き帯も登ったが、普段は登らず、岩壁部分の終点から下降しているとのこと。プロでも嫌な場所だと分り、妙に安心したものだ。

その後も何度となく一の倉を訪れたが、稜線の上まで登ることはなく、岩壁が終わった部分から懸垂下降していた。秋の紅葉に染まった谷を眺めながら、いつかはフリーで登りたいと夢見ていた。小川山や城ケ崎の岩壁をフリーで登るのも楽しかったが、やはりこの壮大さと緊迫感は格別だと思っていた。私はこの岩壁に魅入られていた。

表題の本は、一の倉でもとりわけ目に付く衝立岩に挑んだ若きクライマーの壮絶な生き方を取り上げている。ここまで入れ込めたかどうかは分らないが、あの垂直の岩壁に魅入られた一人として、心に刻まれた本でもある。読んだ後で、俺だって何時かは登るぞと胸に誓った想いは忘れた訳ではない。

まさかその一年後には難病で山に登れなくなるなんて、当時は想像すらしていなかった。率直に言って、谷川岳はフリークライムにはあまり向いていないと思う。でもそれは今だから言えること。当時はけっこう真剣にプランを描いていた。あのまま谷川に挑んでいたら、もしかしたら私も遭難者の慰霊碑に名前を刻まれていたかもしれない。

私はわりとのめり込む性質なので、危ないと分っていても挑むことは、ままある。谷川岳については、のめりこまずに済んで良かったのだと自分を納得させている。しかし、この目で再びあの岸壁を見上げてしまったら、きっと悔恨が胸を渦巻くとも思う。

この季節、新緑と青い空と残雪に彩られた一の倉は、神々しいほどに美しい。分ってはいるが、あれから20年余、未だに足を運ぶ気になれない。けっこう私は未練がましいようだ。
コメント (4)
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