ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ ボボ・ブラジル

2010-06-02 12:19:00 | スポーツ
ここ数年、殴り合いの喧嘩には縁がない。

別に殴り合うのが好きな訳ではないので構わないが、ふと不安になることがある。別にこちらに喧嘩する気がなくても、売られるケースは十分ありえる。

逃げるか、あるいは口八丁でそらすか、あるいは周囲の助けに期待するかといった対応が考えられるが、それも駄目な時はあるかもしれない。

自己防衛のため、止む無く実力行使に及ばねばならないことはありうる。

ところが、この年になると体力の衰えは著しく、昔は固かった拳も柔らかい。いくら強く握り締めても、こんな拳では強く打てない。むしろ、殴ったこちらの拳が痛むのが関の山だ。

こんな時に役に立つのが、頭突きだ。チョーパンなんて言い方もあるが、プロレスなどではヘッドバットとも呼ぶ。

頭蓋骨のおでこの部分は、人間の身体のなかでも特に固い。素人が喧嘩をする場合、一番効果的な技が頭突きなのだ。単におでこを相手の顔面に叩きつけるだけなのだが、案外勇気がいる技でもある。なにせ、相手に接近しなければ使いえない技なのだ。

無鉄砲な反面、案外と臆病な私は顔面よりも、お腹を狙っての頭突きが多かった。このほうが相手の顔を見ずに済むからだ。変に思われる方もいると思うが、こちらから怒って喧嘩を売るならともかく、売られた喧嘩を買う場合、怒る相手の表情は怒りに満ちていて、けっこう威圧感がある。

喧嘩は気構えが大事だ。相手の顔を見て怯えていたら、勝てる喧嘩も勝てやしない。気合負けを防ぐ意味で、私は相手の腹を狙っていた。まあ、私が小柄であり、相手の顔面におでこが届かないことが多かったのも一因だ。

私のような素人だけではない。格闘技の世界でも頭突きは必殺技である。しかも、危険性が高いので、競技系の格闘技では、ほとんどの場合禁じ手となっている。柔道だろうとボクシングであろうと、頭突きは禁止されている。それだけ破壊力が強いという証拠でもある。

この頭突きを禁じていないのが、意外にも興業であり、格闘演技でもある相撲とプロレスだ。なかでも1960年代から活躍していたアメリカの黒人レスラーであるボボ・ブラジルのヘッドバットは有名だ。ジャンプしてのヘッドバットはココバットと呼ばれて怖れられていた。

あまりに強烈な頭突きは、それだけで試合を決められるほどの威力を持っていた。馬場も猪木も、このヘッドバットを浴びたら立ってはいられなかった。鉄人と呼ばれたチャンピオンであるルー・テーズでさえ、このヘッドバットには手を焼いた。

もし、彼が黒人でなかったら、間違いなくチャンピオンベルトは彼の腰に巻かれていたと言われている。残念ながら、それが当時のアメリカのプロレス社会であった。

或る意味、悲劇のプロレスラーであったのかもしれないが、彼の全盛期を知る私にはまるで悲壮感は感じられなかった。さりとて、トニー・アトラスらに代表される筋肉ムキムキの黒人マッチョ・レスラーによく見られる軽薄な明るさとも無縁であった。

ボボ・ブラジルなんてリングネームからして、ある種の軽薄さを感じるが、それでも決して軽薄なレスラーではなかった。時折オバカなふりをして観客の笑いを誘うような真似はしていたが、少し苦しい印象が否めなかった。

プロレスは格闘演技ではあり、本当の強さよりも、強く見せる演技力が大事となる。しかし、ボボ・ブラジルの得意技ヘッド・バットはウソ偽りのない正真正銘の必殺技であった。頭突きというやつは、喧嘩を含めて格闘戦で必ず役立つ強烈な技だ。彼はそのことを誰よりも知っていた気がする。

だからこそ、どんなに軽薄な演技をしても、その内面には確固たる強者の矜持が貫かれていた。喩えていうなら、衰退に向かいつつあることが避けられぬ王国を、それでも守らんと門に立つ古参兵の趣だろうか。

黒人差別、黒人蔑視が普通だった1960年代から70年代のアメリカのプロレス社会において、決してチャンピオンにはなれないと知りつつ、ボボ・ブラジルはヘッドバットを打ち続けた。当時のプロレス界の誰もが一目置く影の実力者であった。忘れ難い名レスラーだと思う。
コメント (4)
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