ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

本当の戦争の話をしよう ティム・オブライエン

2010-06-21 12:30:00 | 
人は極限状況でこそ、本性を露わにする。

戦闘がないという意味での平和を甘受している日本に生まれ育った私には、戦争への従軍経験もないし、戦争の惨禍に巻き込まれたこともない。

人が人を殺しあう戦場ほど、人間の本性が露わになる場所はない。生き延びるために敵を殺し、死ぬと分っていても戦友を見捨てられず、殺戮を快感に感じる一方で、国のため家族のため命を投げ出すことに崇高な使命感すら感じてしまう。

戦いの最中は平和な故国を偲び、戦いが終わった後に訪れる解放と歓喜に我を忘れ、その後に訪れる虚脱状態が心を蝕む。戦争は人を殺し、物を破壊するだけではない。心すら殺してしまう。その一方で極限の状態で育まれた熱き友情は一生ものの貴重さを有する。

戦争を知らない私だが、人が生き延びるための極限状況なら知らないわけではない。十代を登山に傾倒した私だけに、山では人が自ら生きる努力をしなければ、生きて帰ることは許されぬと知っている。

それは戦場の過酷さには及ばぬかもしれない。少なくとも日常的には、そのような極限状況はなかった。それが生じるとしたら、それは遭難もしくはプレ遭難状況であった。

安全を旨とし無謀な登山とは無縁であったが、それでも天候の急変などで厳しい状況に追いやられることはあった。そんな時こそ、人は本性を曝け出す。

昼なお暗い空から降り注ぐ冷たい雨に意気消沈して、テントの隅っこに膝を抱えていじけていたあの日の私。

疲労が骨の髄まで染み込んで、やるべきことをやらずに誤魔化した卑怯な私。

自分も知らなかった臆病で、姑息で、意気地なしの私。

厳しい山での生活は、私から虚飾の衣を剥ぎ取り、知りたくもなかった本性を露にしてくれた。これは辛かった。喧嘩で殴られるより痛かった。先生の厳しい説教よりも遥かにこたえた。人に教えられるのではなく、自分で気がつかざる得なかった情けない自分の姿は、逃げることも誤魔化すことも許されない厳しい現実だった。

山こそ私にとっては、人生の学校だった。ここで学び、ここでしごかれ、ここで鍛えられた。戦場を知らない私にとっては、山こそ極限状況を味わえる数少ない修練の場であった。

だが、やはり山と戦場は違う。どんなに山が厳しくとも、山は人の心を傷つけ、病み衰えさせることはない。戦場の過酷さは、人の心さえもボロボロに痛めつける。

そんな戦場の過酷さを、優しくも厳しく書き記したのが表題の作品だ。それを村上春樹が絶妙な優しい視線で翻訳している。

戦争を賛美しているわけでもないが、さりとて戦争批判に囚われているわけでもない。戦場に放り込まれた若者たちの日々を、淡々とさりげなく、それでいてざっくりと切り拓いて読者に提示してくる。

優しい口調で語られる残酷な戦場の日々は、深く静かに心に染み渡る。そんな傑作です。是非、どうぞ。
コメント (2)
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