ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

幼き日のこと 井上靖

2010-06-14 12:20:00 | 
セピア色の夏の空こそが、幼き日の最初の記憶だと思う。

もちろん、現実にはセピア色と夏の青空は、まったく違う色合いだ。だが、私の脳裏に描かれる記憶は、やはりセピア色なのだ。

原因は分っている。あの頃は、まだカラー写真は普及しておらず、白黒写真が主流だったからだ。つまり私の記憶は、白黒写真を通じて得たイメージによって形作られている。

高校卒業時に引っ越して以来、あの頃のアルバムをしまい込んだままになっていて、まったく目にしていない。でも目をつぶれば思い出せる。日焼けした私と妹たちの写真や、近所の幼馴染みたちと並んだ写真。いずれもセピア色の白黒写真そのままの思い出だ。

つまり私の目を直接通した記憶は、幼き頃には不十分であり、白黒写真のほうが印象が強かったのだろう。実際、保育園に入ってからの思い出なら、途切れ途切れであっても思い出せる。しかしその前、4歳以前の記憶はほとんどない。

記憶がないからといって、影響がないわけでもない。私の犬好きは、祖父母の下に預けられた時のペロのおかげだと思う。また、おばあちゃん子に育ったのも、記憶にない幼少時の影響だと思う。

でも、やっぱり一番印象に強いのは、夏の青空だ。当時、住んでいた町は米軍基地の隣にあり、新興住宅地でもあったが、まだまだ森や林、原っぱなどが残っていた。

私の記憶にある空は、みな原っぱに寝転んで見上げたものばかりだ。たしかに私は寝転ぶのが好きな子供だった。記憶に残っているのは空の青さばかりではない。鼻奥に届く草の匂い、舌先に残る土の味、耳元をくすぐる草のそよぐ音、大地を動く虫の気配、五感を駆使して自然を感じていた。

この感性は、大人になるにつれて鈍くなってきたが、あの頃はすべてが新鮮だった。幼き日の記憶のなんて芳醇で豊かなことだろう。時間はゆったりと流れていた。それでも一日が終わるのが、もったいなくて仕方なかった。だから夕暮れ時は寂しく、哀しかった。

表題の作品は、井上靖の幼き日の思い出を綴ったものだ。さすが本物の作家の記憶は、いや、記憶の構成力はすごい。誇張はもちろん、創作もあるのだろうが、あそこまで緻密に幼き日を描くことは容易ではない。

ブログを書きはじめて、かれこれ5年になるが、このような本物の文章に出会うと、自分はまだまだなのだと痛感する。いやはや文章修行の日々は果てなく遠いようだ。
コメント (4)
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