心の奥底に、血まみれの獣が棲んでいる。
そのことに気がついたのは、小学6年の時であった。小柄な私は、背の順でいくと、いつも前から5番以内であった。ところが、成長期が始まり、気がついたらクラスでも中くらいにまで身長が伸びていた。
伸びていたのは身長だけではない。なぜか態度までもがでかくなっていた。もっとも、大半のクラスメイトも、私より少し遅れて成長期に入ったので、いつのまにやら元の位置に戻っていた。
背の順は元に戻ったが、態度はでかいままだった。鈍感な私はそのことに気がつかず、周囲からの反発を受けて、ようやく気がついた。
気がついた時には手遅れで、いじめというより制裁の的とされていた。幸い、この時の担任の先生がしっかりしていたので、短期間で終わった。
だが、遊び仲間の一人とは、どうしてもソリが合わなくなっていた。そのため、放課後一人の立会いの許で決闘することとなった。奴と一対一なら負ける気はしなかった。
結果は、あっけなかった。彼の喧嘩の癖を知っていた私は、あっさりと彼を床に引き摺りまわして倒し、馬乗りになって顔面をボコボコに殴った。指を亜脱臼するほど強烈に殴っていたことは、後で指が痛み出してから分った。
殴っている最中は、いつもやられていたことをやり返せる快感に酔っていた。鼻血を出し、泣きながら抵抗する彼を見下ろしながら、私は優越感と勝利の喜びに浸っていた。
だが、その酔いがとりとめもなく、腹の奥底から湧いてくることに戸惑っていた。自分が止まらなくなる恐怖に怯えて、我に返ると血まみれで泣いている彼の謝罪の声が耳に入ってきた。
聴こえていなかった・・・殴るのに夢中で、殴りつける快感に酔いしれた私には、彼の声が耳に入っていなかった。ふと、気がつくと、立会いを務めてくれたTの奴が私を薄気味悪そうに見ていた。
嫌な勝ち方をしたと後悔した。その後、私は二週間ほど村八分となった。これは堪えた。自分が悪いことが明白だったからだ。仲直りをして、ようやく元の平穏な関係に戻れた時は、心の底から安堵した。
同時に私は喧嘩を恐れるようになった。争うのが嫌いで、おとなしいはずの自分の奥底に、血まみれの獣が潜んでいることを知ってしまったからだ。
以来、私は我を忘れるような喧嘩はしていない。止む無く喧嘩をするときも、心の一部を冷静に保ち、心の奥底から血まみれの獣が湧き上がることを警戒していた。人を傷つける快感に溺れる自分がおぞましいからだ。
あれから40年近く経つが、血まみれの獣は今も私の心の奥底のどこかで眠っているはずだ。そう思わざる得ないのは、小説などで暴力の場面になると、妙に心が浮き立つことに気がついているからだ。
なかでも、私を浮つかせる代表的な作家がアメリカのジェームズ・エルロイだ。
最初に読んだのが、今から20年近く前に読んだ表題の作だ。初めて読んだ時から、こいつは危ないと予感していた。エルロイが書き記す暴力には、甘い腐臭を漂わせたスパイスが加味されている。
単なる暴力ならば、これほど惹かれることはない。人間の獣じみた本能に火をつけるような、危うい暴力だからこそ惹かれてしまう。
白状すると、エルロイのミステリーはあまり好きではない。プロットが複雑すぎるし、過剰に煽動的だし、主人公の異常さにも共感できない。なにより、取り扱う題材が陰惨であり、壮絶であり、邪悪に過ぎる。
にもかかわらず無視できない。数ヶ月経つと、なぜか読みたくなる。
認めざる得ないが、この香りは濃厚にして芳醇で、心の奥底まで届く。常識と理性で抑えられていたはずの危ない扉が、ゆらゆらと揺れているのが分る。
ライオンをはじめとして肉食獣の多くは、捕らえた獲物を一度埋めたりして、その肉が腐敗するのを待つことが多い。人間には腐臭としか思えないが、肉食獣にはたまらない香りであるようだ。
エルロイのミステリーもまた、一度埋められた肉に似ている。あるいは中毒性のアルコール過多のフルーツカクテルなのだろう。
どうも、私ははまっているようだ。少し恥じつつ、そう思わざるえない。