プロ中のプロの悪役、それがタイガー・ジェット・シンだ。
1970年代後半のことだ。新宿東口に買い物にやってきた目立つ夫婦がいた。ひと目を引きつけずにはいられないオーラを放つのは、アントニオ猪木と倍賞千恵子であった。奥様も芸能人なだけに、この夫婦は異常に目立つ。
その二人に襲い掛かった暴漢がいた。奥様をかばう猪木を滅多打ちにして、立ち去った外国人。それがタイガー・ジェット・シンであった。
この新宿襲撃事件は、日頃プロレス記事など取り上げない一般紙までもが紙面に載せた。当然に東京スポーツや、週刊プロレスなどは、大騒ぎである。
翌週の新日本プロレスの興行には、この犯人であるタイガー・ジェット・シンがメイン・イベンターとして登場していたので、すぐにこれが「やらせ」であることに気がついたため、一般紙は沈静化したが、火がついたプロレス・ファンは燃え盛ったままであった。
何故なら、シンの登場した試合は、異様に燃え上がったからだ。サーベルを口にくわえて、ターバンを頭に巻いたシンが登場すると、会場は興奮の坩堝に投げ込まれた。
シンの悪役ぶりは、観客をエキサイトさせずにはいられない暴虐ぶり。レフリーの目を盗んでの反則攻撃はもちろん、コブラ・クローを始めとした痛め技も堂々たるものであった。なによりも、狂乱の暴れっぷりが最高だった。
これだけ観客を興奮させた悪役レスラーは、そうは居ないと断言できる名優ぶり。しかも伝統あるインド・レスリングの使い手としても一流であるが、それ以上に喧嘩が強いラフ・ファイターであった。
時折、猪木や坂口相手に、真剣なグランド・レスリングの技を見せることもあったが、猪木や坂口が舌を巻くほどのテクニシャンでもあった。正統派のプロレスも、やれば出来る真の実力派レスラーでもある。
プロレス・ブームが起る前、新日本プロレスの屋台骨を支えるほどの活躍をみせたのが、タイガー・ジェット・シンであった。
実はカナダでは実業家の顔を持ち、現地カルガリーのインド系コミュニティでは温和な紳士として知られている。プロレスに全く興味がない日本人が、カナダで仕事をした際にシンの会社に世話になり、帰国してあの紳士が、日本では狂乱の悪役レスラーとして著名であることに仰天したエピソードがある。
また日本での地方巡業中に、道路の路肩の排水溝にタイヤがはまって困っていた老夫婦を見かけると、車をわざわざ降りて、その車を素手で持ち上げて助けたことでも知られている。
この話はオフレコであったはずなのだが、口の軽い某人気レスラーが喋ってしまい知られた話でもある。日本では悪役であることを自らに課していたシンは激怒して、その某レスラーを試合中に病院送りにするほど懲らしめてしまったそうだ。
もっともこれは例外的で、リングの上では狂乱の悪役ファイトを繰り広げたシンだが、相手を深く傷つけるような試合はしていない。その意味でも、真の悪役プロレスラーであった。まこと、名優であったと思いますね。