女の方が強い!・・・のかな。
私は概念的な意味での男女平等には関心がない。機会均等という意味での平等なら、そうあって欲しいと願っているが、結果の平等を求めることは間違いだと考えている。
だから女性の大臣が少ないとか、女性の社長が少ないから日本は遅れているなんて主張を耳にすると、馬鹿じゃないかと思っている。優秀な人材を適材適所に置くのが、組織のために必要なのであって、女性大臣、女性社長の割合なんて悪しき平等主義の顕われだと思う。
第一、少子高齢化の日本で人材を一方の性に偏らせること自体、間抜けな話で男女を問わず優秀な人材を活用せねば、斜陽の日本を支えきれないとも思っている。私のみたところ、男女平等とか女性の地位向上を声高に叫ぶ人よりも、自分のやりたいことを実現するために、手段として社長になる女性は確実に増えているように思う。
このあたりが面白いところで、社長の地位を目指す男は、声に出さねども少なくない。一方、女性は社長がどうこうではなく、やりたい事を実現するために社長になる。あるいは、組織内部での地位を捨てて、自分のやりたいことを実現するために個人事業主になったりするのも、どちらかといえば女性のほうが多いように思える。
もちろん、同様な行動をとる男性も少なくないが、やもすれば社会的立場とか組織内部のしがらみに縛られがちなのは、やはり男性の側であるようにも思う。女性であっても、男性同様の体面とかしがらみはあるのだが、その束縛の割合は低いように思える。
もっと言えば、女性的なとか、男性的なといった形容詞でくくること自体、あまり意味がないように思える。繊細で気配りの利いた経営をする男性社長もいるし、強力なリーダーシップで集団をまとめて、力強く組織運営をする女性経営者もいある。性差の問題ではなく、リーダーとしての在り方は個々人でかなり違う。
ただ、女性的なしなやかさ、女性的なたくましさとか形容しようがない独特なスタイルがあるのも事実で、男女差は確実にある。それは組織運営にプラスとなる場合もあるし、その逆もある。どちらが優秀かどうかは、個々の結果でしか判定できないと思う。それゆえに、私は男女平等には関心がもてない。異なる才能、才覚が平等である必要はないと断言したい。
そんな私が近年、なんとなく気になるのが映画、とりわけハリウッドの映画において女性の強さを強調した作品が増えているように思えてならないことだ。ヒロインが回し蹴りや、打撃で男性たちを圧唐キる場面をみることが、昔よりも確実に増えているように思う。
そして、そんな場面に喝采を送り、当然のものとして楽しむ観衆が普通にいること自体、ずいぶんと変わったものだと思う。少なくても60年代までのハリウッド映画には観られなかったと思う。
ただし、現実には格闘技など暴力行為に関しては、筋力で勝る男性の優位性は変わりはない。それなのに蹴り技や打撃などの暴力で、女性が男性を圧唐キる映像を出して、観客の歓心を買うのもどうかと思うが、それが売れる以上、致し方ないのだろう。
女性には女性の強さがあり、それが男と同じものである必要はないと思う。性差の違いは、能力にも違いが出るのも当然で、無理に同じにすることは不自然だとさえ思うことが多い。むしろ、違いを尊重し合うほうが前向きだと思うし、現実にはその方向性で動いているからこそ、女性の政治家や経営者が活躍しているはずだ。
だから、たまたま時間つぶしで映画館に飛び込んで、表題の作品を見たときも、やはり同様な違和感を禁じ得なかった。ネタバレにならない範囲で書きますが、この映画、つまるところ魔女対ヴァンパイア(男性)です。
魔女には魔女としての強さがあると思うし、せっかくの吸血鬼の能力もあれじゃ活かされていないと不満を感じてしまいました。いや、楽しめる映画である点は否定しません。第一、うたたねするつもりの私が、ついつい最後まで映像に引き込まれてしまったぐらい楽しかったのですから。
でもなぁ、あれじゃあ何のための魔女で、なんのための吸血鬼なのか必然性が薄い。そこが物足りない。200年の眠りから覚めた浦島太郎状態の吸血鬼が、現代文明に触れてのドタバタは、面白いは面白い。
また愛(独占欲だわな)と憎悪に悩む魔女の恐ろしさと、したたかさこそ見物だけど、吸血鬼とのバトル・シーンはむしろ余計に思えて仕方なかった。ホラー映画とするには浮ウに欠けるし、コメディ映画の資格もあるが、余計なバトルが興を削ぐ。
それでも最後まで眠らずに観られるだけの面白さはありますから、観て損をすることはないと思います。
でも、やっぱり男って女に弱いのだなぁ。憎んでいるはずの魔女の誘惑に戸惑い、悩めるジョニー・デップの怪演は、見る価値あるかも・・・です。