裁かれているのは我々だ。
イスラエルで逃亡ナチスの大物であるアイヒマンが裁かれた日の翌日、ヨーロッパの著名新聞が冒頭にもってきた科白である。実に痛烈な自己批判であり、その意味するところは、ユダヤ人を差別し迫害し、ナチスの犯罪に加担したしたのは普通のヨーロッパの人々であったことを自白している。
敢えて言ってしまえば、ユダヤ人を嫌い、ユダヤ人を迫害し、ゲットーに追いやったのは、ナチスの専売特許ではない。スペインからフランス、ドイツ、メ[ランド、ロシアと、いたるところで普通に行われていたことであった。
もちろん嫌われるには相応な理由はあったのだろう。率直に言って、ユダヤ人は多民族から好まれるような振る舞いをする人たちではない。ユダヤに対する差別感情とは無縁な日本人からみても、ユダヤ人の依怙地さは他人から嫌われることを予定しているがごとき印象がある。
厄介ななのは、その依怙地さが宗教からくる確信であり、好悪の感情論で判じるべきものではないからだ。心の自由までは立ち入るべきではないし、互いに尊重し合うべきだと思う。
だが、ユダヤ人には、他者に対する寛容さに欠け、ユダヤ人のみに凝り固まる閉鎖性があまりに強かった。だからこそ、他の民族から嫌われた。それゆえに、ナチスがユダヤ人絶滅を宣し、それを実行するに至った時、密かに拍手喝采した人は相当数に上ったと考えられる。
これらの、ユダヤ人は好きではないが、自分では絶滅させてやろうなどと思わない普通の人々こそが多数いたからこそ、ナチスはユダヤ人狩りを円滑に行えた。普通の人々からの密告などの協力があったからこそ、短時間でユダヤ人は強制収容所に閉じ込められた。
ナチスが戦争に負けて、ユダヤ人絶滅が戦争犯罪として裁かれた時、ユダヤ人廃絶に喝采を送った普通の人々は、後ろめたい気持ちにさい悩まされることとなった。自分たちも共犯者であると分かっていたからだ。
それゆえに、戦後長らくユダヤ人は常に可哀相な被害者であり、ナチス・ドイツは残虐な悪役であり続けた。それは映画でもドラマでも小説でも変わることのない定理となっていた。
だからこそ、表題の作品が1975年に発売され、しかも大ヒットを記録したことは当時としては驚愕の出来事であった。なにせ主人公はナチス・ドイツの軍人なのだから。作品中にユダヤの少女を救って、閑職に追いやられた経緯が添えられてはいたが、それでもナチス・ドイツの軍人であることに変わりはない。
にもかかわらず、主人公は圧涛Iな人気を博した。もう一人の主役も、当時ヨーロッパで嫌われていたIRA(アイルランド独立闘争軍)の兵士であったから、この人気には驚かされる。
人気の原因は、主人公たちが格好良かったからだ。その生き方、戦い方、優しさの見せ方、苦悩の隠し方、どれをとっても男として憧れてしまうほど恰好良かった。どんな立場にあっても、個人としての魅力は損なわれることはなかった。だからこそ、この作品は人気を博した。
我が日本でも、冒険小説の人気ランキング上位の常連であり、二人の主人公も常に憧れの存在としてクローズアップされ続けた。どんな立場であっても、どんな時代の逆風にあっても、そこに人としての魅力がある以上、ナチスの兵士であろうとテロリストであろうと関係ない。
いや、むしろ本来なら敵役であるべき主役の二人だが、そのどちらをもが格好良くて、むしろ敵方の勝者の側がかなり情けなく思えるように描かれている。多分、熱狂的かつ教条的な反ナチス論者からは嫌われたはずだが、その逆風を乗り越えて人気作となった。
その意味でも冒険的な作品であったように思う。
でもね、もし未読でしたら是非とも純粋に、単純に楽しんで欲しい。私の能書きなんて忘れて、緊迫の冒険劇を堪能して欲しい。それだけの価値ある名作ですぜ、こいつはね。