箱庭に吹く涼風、それが私の細川政権に対する評価だ。
風光明媚な日本庭園を模した箱庭は、見た目綺麗だが、所詮限られた枠の中でのみ実現された模造品。だから世間の荒波に洗われてしまうと、途端に箱の底が覗けてしまう。
涼風はたしかに気持ちいいが、気持ちいいだけで、すぐに消え去るものだ。吹き続ければ、むしろ快適さは消えて、窓を閉めるか、上着を着たくなる。その程度のものなのだ。
戦後長く続いた自民党政権を打ち破り、颯爽と現れた日本新党とさきがけの連立政権は、たしかに因習を打ち破る斬新なイメージを伴っていたことは間違いない。
あの時、私は長きにわたる病気療養生活の終わりを迎え、昼間は週に3日ほど専門学校で勉強し、やはり週に3日ほど泊まり込みの警備員のアルバイトをしていた。品川駅ちかくの外車ディーラーであり、警備員室にはベッドと机があり、勉強が出来るのが魅力であった。
病み衰えた身体を回復させるために始めたアルバイトであり、通う時は品川駅ではなく、五反田から地下鉄で泉岳寺で降りてバイト先に行くようにしていた。なるべく歩いて体力を付けるため、五反田や目黒の駅から歩くこともあった。
この近辺は、白金台や高輪といった高級住宅地であり、散歩気分で景観を楽しむことが出来るので、時間がかかってもなるべく歩くようにしていた。その通り道に、当時人気を博していた日本新党の党本部があった。
いつも通りにはマスコミ、警察、見物客が居たので、否が応でも目についた。党本部は中規模ながらも高級そうなマンションにあり、急激に増えた党員に対応しきれないのか、幾つもの部屋を借りていたようだ。
私は遠巻きに眺めながら、ここから日本の歴史は変わったのだなと感慨深く思っていた。だが、その感慨も一年ともたなかった。理由も述べずに政権を放り出して、お殿様は隠居してしまった。
放り出された日本新党の議員や、連立を組んでいたさきがけの議員たちは右往左往し、気が付いたら自社さきがけの連立世間の登場であり、村山内閣の登場である。なんのことはない、昔の仇敵同士が手を取り合って、新しい風を遮断してしまった。
いったい全体、あの細川連立内閣って何だったのだ?
今だから分かるのだけど、あのド素人・細川内閣と、それに続く実務能力欠如の村山内閣の存在があったからこそ、霞が関の官僚たちが政治に強く関与するようになった。官僚の力を借りねば政権は運営できなかった。
あげくに頭が良くって官僚の難しい作文を理解することに長けた橋本内閣の頃になると、官僚主導の内閣運営が当然のようになっていた。日本の官僚は優秀だというが、その優秀さは過去をなぞらえる場合にこそ真価をはっきする。
つまり過去に先例があれば、そこから最適と思える処方箋を導き出す優秀さである。だからこそ、バブルの崩壊とデフレ不況という前例のない事態に対応することが出来なかった。
これこそが、失われた10年の正体である。
その発端は、政権を放り出した細川内閣から始まると私は理解している。
もし細川を次期東京都知事に相応しいとお思いの方がいらしたら、よくよく考えて欲しい。この世間ずれしたお殿様が何をして、結果どうなったのかを。