誰しも自分のことは、よく分かってないものだと痛感した。
先々週だが、週刊誌に元・東京都知事の石原慎太郎のインタビュー記事が掲載されていた。そのタイトルが笑える、「小池は総理の器に非ず」である。立ち読みしただけだが、読んでみると自画自賛に過ぎず、この人が如何に夜郎自大となっていたかが良く分かる内容であった。
小池百合子が総理の器を有するか、どうかは現時点では分からない。一匹オオカミであった小池女史が、自らの政党なり、支持勢力を一定期間維持できるか、どうかにかかっていると私は思う。
一方、総理の器がなかった事が確定しているのが、石原慎太郎本人である。
この人は、国政選挙であれだけの支持票を集めながら、国会においては満足に派閥一つ維持できなかった。派閥を否定的にみる人は多いと思うが、人は集まれば必ず集団を作る。その集団の最も大きなものが主導権を握るのは、人という社会性の強い生き物の本能的行動である。
石原は、何度か派閥横断的な、今風に云えば政策集団を作ったが、どれも維持できなかった。石原は自分を支持してくれる部下を求めていたが、その部下を守る発想はついぞ出来なかった。
これでは周りは付いてこない。議会政治において、多数派を形成できない政治家は、いくら声高々に正論を叫ぼうと、決して支持されることはない。間違いなく、石原は総理の器ではなかった。
議会政治を制する力量がなかった石原は、青島の後釜を狙い、東京都知事に立候補して圧勝した。小規模な国家並みの財政力を誇る東京都に君臨することで、総理になれなかった鬱憤を晴らした。
都知事としての石原は、その頭の良さと指導力を発揮して、地道に都政を変えていった。その実績は確かだが、功罪相半ばする政治であったことが今では露呈している。
しかし、冒頭の雑誌インタビューでは、功を誇る反面、罪についてはしらばっくれている。いや、功(銀行税など)についても、その失敗は認めたくないようで、あくまで成功だと言い張る。
この人、頭が良すぎて、プライドも高すぎて、自らの失敗を認めない悪癖がある。その自覚がない。石原は有権者からは圧涛Iな支持を得ていたのは確かだ。しかしながら、議員たちからの支持は得られなかった。
もし日本の選挙制度が直接に総理を選ぶものであったら、石原総理が誕生していたかもしれない。そう思うと間接選挙制度で良かったと、心底安堵しています。
追記 先週末に石原・元東京都知事の会見が開かれた。全部見ていた訳でもないのだが、つくづくこの人、総理の器ではないな。無責任で自分の体面ばかり守らんとする姿勢が露骨で、その弁明は醜悪でさえあった。こんな人物が、選挙で圧倒的な得票を得たのだから、民主主義って怖いと思います。