群れを作る動物たちを観察するのは、非常に興味深い。
犬でも猿でも、幼い子供が悪さをすると厳しく叱りつける。猫でさえ子猫を強く噛んで、してはいけないことを教え込む。ただし、大怪我をさせるような体罰は決してしない。あくまで躾けとしての体罰である。
ちなみに、幼い時にこの体罰を受けていない子犬や子ザル、子猫は大人になってからのコミュニケーションが下手になる。特に人間に幼い時に飼われ、大人になってから野性に戻された場合、群れに戻ることは極めて難しくなる。
現在、世界各地の動物園や動物学者、自然公園の管理者の間で、如何に野性に戻すかの研究と実践がされている。そこで問題になっているのが、可愛いからと人間に売られ、飼われていた元ペットである動物を、如何に野性に戻すかである。
あまり人間に懐かない種、例えばライオンとかはまだいいが、懐きやすいチーター、ゴリラ、オランウータンなどは、野生の同族とのコミュニケーションが上手くいかないことが少ないくない。
チーターの母親は、言うことをきかない子チーターを噛んで、ダメだと教える。その噛む強さは絶妙で、怪我はしないが、十分に痛みを伴う力の入れ具合である。これが人間には出来ない。
言葉を持たない動物にとって、噛むということは重要なコミュニケーションとなる。私は初対面の犬と仲良くなる際には、犬に私の腕を噛ませてみる。最初は強く噛むが、我慢していると力を弱めて、舐め返してくれる。
噛んでも怒らない相手、遊び相手だと認めてくれたのだと私は思っている。でも、この噛み具合を知らない犬には浮ュて手が出せない。幼い時に兄弟の犬たちと、じゃれ合い、噛み合った犬なら大丈夫。でも、それを知らない犬は手加減というか、噛み加減が下手くそなので、こちらが大怪我をする可能性がある。
痛みは、自分の身で実体験しないと理解できない。
これは、動物であろうと、人であろうと同じである。最近の傾向として、日本では体罰厳禁となっている。特に学校教育では、体罰はほとんどされていない。
その結果、叩かれる痛み、殴られる痛み、蹴られる痛みを知らない子供が増えてしまった。特に強い子ほど、その痛みを知らないから、加減が下手くそで、子供同士の喧嘩で大怪我をするケースもあるほどだ。
困ったことに、体罰禁止に縛られた教師は、暴力的な子供を御することが出来ない。幼い子供でも、話せば分かることは十分ある。しかし、話したって分からない、分かりたくないこともある。
私自身がそうだった。随分悪さをして、教師から睨まれた子供であったせいで、よく怒られたものだ。長々と説教されたり、反省文とやらを書かされたこともある。
でも、断言するけど、あれは無意味。私は説教を聞いているふりして、脳内で空想の遊びをして、やり過ごす名人であった。本を読むのが好きであった私は、もっともらしい反省文を書くのは得意であったが、反省なんざしちゃいない。ただ、やり過ごすだけである。
そんな捻くれた私が一番恐れ、かつ尊敬していたのは体罰を厭わない教師であった。
中学の技術担当の教師であったM先生の得意技は、拳骨飴であった。授業が始まるまでに着席せず、廊下で遊んでいた私ら悪ガキ4名を教壇に呼び寄せる。そして時間を守らなかったお前たちには、先生の拳骨飴を食わせてやると宣言した。
次の瞬間、M先生の拳骨が私たちの脳天を直撃した。
眼から火花が飛ぶというか、お星さまがキラキラ瞬いたと思うほど痛かった。あまりの痛みにへたり込んだ。
M先生は私たちを立たせ、席に戻りなさいと云って、授業が始まった。先輩から聞かされていた伝説の拳骨飴の威力は、想像以上であった。以来、私たちはM先生の授業に遅れたことはない。
M先生は怒って体罰をしたのではない。私らが悪いこと(時間を守らない)をしたから罰したのだ。そのことが私らには分かっていた。ちなみに、誰ひとり怪我はしていない。M先生は長い説教なんて、したことがない。拳骨一発終われば、後は誰区別なく平等に接してくれた。
一発、拳骨喰らわせてお終いである。
どんな理路整然とした説教よりも、M先生の拳骨のほうが効いたと思う。
M先生は、一年の終わりに他校へ転勤となってしまった。その最後の日、校舎の出入り口から校門まで、かつてM先生の拳骨を喰らった生徒たちが列をなして、別れの挨拶をした。泣いている生徒もいた。
体罰当然の中学校であったが、M先生の拳骨は別格であった。怒るのではなく、叱るでもなく、拳骨一発で問題解決させる稀有な先生であったと思う。私らにとっては、M先生の拳骨を喰らうことは、一種の勲章であった。
M先生が素晴らしかったのは、怒っての体罰ではなかったことだ。事実、まったく声を荒げない人で、淡々と罰する理由を述べて、その後に拳骨一発である。
放課後、相談に行けば親身に話を聴いてくれたし、授業も教科書に沿って、要点を絞った上手な教師であった。人気があったのも当然である。
今となっては、このような先生はいないのだろう。体罰は、使い方、使い手次第では有効な教育手段だと私は自分の体験から確信している。しかし、今の先生たちには無理だろうと思っている。
今どきの先生は、自身が体罰を受けた経験に乏しいから、生徒を傷つけないような体罰が出来ないと思う。大人が子供に暴力を振るうのは、思いの外難しいものだ。この手加減は、理屈ではなく、体得するものだ。
その上、生徒を怒るのではなく、叱るのであるが、怒りを抑えきれぬ先生は少なくない。私らがM先生に心服していたのは、M先生が怒って体罰をしたのではなく、私らが悪いことをしたからだと納得させていたからだ。
しかも、それを短い言葉で、反論の余地もないほど明確に示し、その上で体罰である。あの頃でも、これが出来る先生は少なかった。ほとんどの教師は、怒りを抑えきれず、それを生徒に見透かされていた。
一番拙いのは、怒りの発散としての体罰である。今も昔も、このタイプの体罰が多いのではないかと思う。そして、昔より悪いのは、生徒を怪我させずに体罰をする技術が未熟な教師が大半であることだ。
これでは、体罰禁止だと騒がれるのも無理はない。
でも、私は一律の体罰禁止は間違っていると思う。人間は暴力を嫌うが、人間から暴力がなくなることはない。それは歴史が証明している。犬や猫でさえ出来る適切な体罰を、人間様が出来ないとは、おかしなことになったものです。