清らかな清流に生まれて育った魚は、栄養豊富な濁った池では生きていけないのだろうか。
表題の作品は、プロレタリア作家小林多喜二の母を主人公に、多喜二の生涯と、その死後の家族について描かれている。
私は小学生の頃から、マルクス主義に傾倒した青年たちが周囲に居たせいか、ロシア文学やプロレタリア文学にもわりと馴染んでいた。ただ、多喜二の代表作である「蟹工船」は読んだことはない。
でも、良く知っている。読んだのではなく、読書会での朗読で、何度となく聞かされていたからだ。貧しい人たちの虐げられる姿に、幼いながらも社会的な正義感に熱くなった覚えがある。
ただ、ひねくれた子供であったので、労働者の一員として抵抗するのではなく、資本家になって労働者に優しい事業をやればいいのではないかと内心思っていた。さすがに、それを口に出すほど馬鹿ではない。
現実問題、私の周囲には貧しい人たちは珍しくなかった。だから、貧しい人たち=善人であるわけではないことは知っていた。実際こすっからい人は多かったし、些細なことで激高する面倒な人もいた。
一番最悪だったのは、その貧しさが愚かさからくるものであることが多かったことだ。ある者は酒に溺れ、ある者は賭博に埋もれた。分かっていながら止められない人の性なのかもしれないが、子供であった私には素直には認めがたかった。
そんな醜い現実を知ってはいたが、その一方で豊かな暮らしを営む人には分からない情の深さや、暖かさがあることも気が付いていた。冬の隙間風が吹き込む掘立小屋のようなオンボロアパートで、身を寄せ合い、少ない食事を互いに分け与える家族の結びつきの深さ、濃さなんて金持ちには分からないと思う。
残っている僅かな食糧を、より貧しい人たちに与えてしまう心根を愚かと見下す人もいるでしょう。でも、哀しい敬意を抱いてしまう切なさを私は感じていました。
小林多喜二は、きっとそんな家庭で育ち、温かい心と清らかな精神でプロレタリア作家として生きていく覚悟を決めたのでしょう。そのことが良く分かる良作だと思います。