長期にわたる入院生活は退屈だ。
そのせいだと思うが、20代の頃に私が入院していた大学病院では、夜になると談話室に数人が集まって、お喋りで時間潰しをすることが多かった。もちろん、就寝時間であるから、本来は禁止なのだが、騒ぐでもなく、酒を飲むでもなく、静かに話しているので、夜勤の医師や看護婦さんたちも黙認してくれた。
あの時の夜の集会の主催者は、不良患者の代表でもあったS氏である。元右翼団体の幹部だとかで、鋭い目つきの初老の男性だが、幾つもの病院を追い出され、他に行くところがないので、大人しく入院生活を送っていた。
夜12時過ぎ、静かな病棟のナースステーションの前にある談話室に、S氏が幾つかの御菓子と缶ジュースを机の上に置いて、誰か話し相手が来るのを待っている。
すると、ちらほらと眠れずに退屈していた患者たちが集まってくる。手ぶらで来る人もいるが、お菓子やお惣菜などを持ってくる人もいる。ただし、酒は厳禁である。
飲みたがる患者もいたが、強面のS氏が絶対に許さなかった。病院を出たり、入ったりしている生活を10年ちかくやっているS氏は、病院長や総婦長とも懇意で、他の病院を追い出されたS氏を受け入れてくれたこの病院が最後の行き場であり、飲酒など病院が嫌がることはやらないし、させなかった。
その病棟は、全国から難病患者が集まるだけに、いささか難儀な人たちが多かった。普通なら敬遠されるS氏が尊重されたのは、彼が暴力や飲酒などを他の患者に許さなかったからだろうと思う。
当時、車椅子から解放され、点滴をぶら下げた移動式の点滴台にすがり付きながら、病棟をよたよたと歩いていた私は、男性患者の中では最年少であった。そのせいで、S氏から可愛がられた。
子供の頃から銭湯などで、入れ墨入れた博徒の人たちとの交流があった私は、強面のS氏を苦手にしなかったので、気に入られたのだと思う。
あれは台風が接近中の雨の激しい夜であったと思う。空調完備の病棟ではあるが、窓を揺らす強風と、叩きつける雨音が気になって、眠りずらい夜だった。私が深夜の談話室に足を運んだのは、点滴の交換を終えた後だから、深夜1時過ぎだった。
薄暗い談話室には、4人ほどが集まっていて、なにやら談笑していた。私も挨拶してから参加して、お菓子を少し頂いた。珍しく暖かいお茶が出されたことは良く覚えている。
眠気を覚えて退席しようとしたら、また新しい患者さんがやってきた。見覚えのない人であったが、以前この病棟にいたらしく、S氏は「お、久しぶりだな」と声をかけていた。
入れ違いであったので、私は目礼だけして、その場を後にした。その翌日のことだ。昼食の後、ベッドの上で本を読んでいると、隣の病室のAさんが来て「Sさんが呼んでいるから、談話室まで来てくれる?」と言ってきた。
なんだろうと思いながら、点滴台にすがりながら行ってみる。すると、なにやら言い争う声が聞こえてきた。一人はS氏であるが、もう一人は誰だろうか分からない。でも近づいてみて分かった。昨夜、私と入れ違いに来た人だ。
S氏が私を呼び寄せ、「ほら、全然違うだろう」と相手に言うと、彼は私をまじまじと見つめ、違う・・・と呟いた。でも、すぐに「いや、たしかに俺はTさんを見たんだ」と言いだす。
うんざりしたようなS氏が、そりゃ見間違いだよと呆れている。いったい、何の話ですかと問うとS氏が説明してくれた。その相手、Yさんは昨夜、深夜の談話室でTさんをみたと強硬に言い張るので困っているとの事。
Tさんて、先月亡くなったあのTさんですかと私が答えると、Yさんが乗り出してきて「いたよね、Tさん。見たよね、君も」と語りかけてきた。
ビックリした。S氏はうんざりした様子で、しきりにタバコをふかしていた。私がTさんは既に亡くなっており、昨夜も見かける訳がないことを説明するが、Yさんは納得しなかった。
挙句の果てに、ナースステーションに出向いて、Tさんのことを訊きだそうとしていた。病院が患者の情報を簡単に教える訳がなく、Yさんは激高している始末である。
S氏は苦り切った様子で、こりゃしばらく夜の集会は中止だよと嘆いていた。この病棟は難病患者が多く、亡くなる方もかなり多い。それだけに生死の情報の管理は厳格で、下手な噂話さえ嫌がる。
事態を重く見た病院側からの要望で、S氏の予想通り深夜の集会は禁止されてしまった。
ところでTさんなのだが、実は私とほぼ同じ感じで難病に苦しんだ方でした。ただ、私が9週間程度で人工透析から離脱できたの対し、Tさんは慢性化してしまったところが違いました。
実際のところ、私も慢性化するとみられていて、そのために左腕にシャント手術をする予定でしたが、前日に微量ながら尿が出たのです。おかげで手術は中止となり、透析からも離脱できたのです。
これはかなりレア・ケースなようで、私の主治医はこれを学術論文として発表したほどです。ただ、これを妬んだり、羨む人が出てきたのには、いささか閉口しましたが、Tさんの助言もあって黙殺していました。
Tさんは、「ヌマンタ君、貴方はかなり幸運だよ。丈夫な体に産んでくれた親御さんに感謝しなさい」と言ってくれた方で、他にもいろいろと助言を頂きました。だから亡くなった時はとても残念な気持ちになりました。
なんで私がその死を知っているかと云えば、奥様が後日私の元を訪れて教えてくれたからです。少ないのですよ、私と同じ病態の患者さんは。Tさんは、私のような離脱例があることを、とても喜んでいたとのこと。
未熟な私は碌に返事も出来ず、只々涙ぐむだけでした。だから深夜の集会に来たYさんが、Tさんを見たと言った時は正直、ちょっと怖かった。一時期、私の隣のベッドに居たのがTさんでしたから。
私とは背格好も声も違うので、間違えるにしてもオカシイと思います。でも、Yさんには私がTさんに見えてしまったようなのです。S氏にたしなめられたのか、その後Yさんが私に近寄ってくることはありませんでしたが、あまり良い気持ちにはなれませんでした。
ところで、深夜の集会ですが、実はすぐに復活しました。ただ、場所は外来病棟の待合室。ここはかなり広く、深夜でも灯りがついており、病院スタッフだけでなく、出入りの業者、付添いの家族などが一休みしている場所でした。
ただ、私が入院している病棟からは、いささか遠く、点滴台を頼りに動いていた私は、しばらく参加できませんでした。きっと、毎晩噂話に花が咲いていたと思います。
だって仕方ないです。入院生活は本当に退屈ですからね。