誰だって幸せに生きたいはずだ。
だが、火事や震災など不可抗力な天災に襲われることもある。病気や戦乱などで幸せを失うことだってある。誰もが望む幸せは一様ではないが、幸せを掴むのは、案外と難しい。
私自身、幸せに、あるいは安穏に生きたいと願っているが、なかなか思う様にいかないのが現実だ。もちろん不可抗力な原因もある。しかし、よくよく考えてみると自分自身の頑なさが原因であることもある。
半世紀以上かけて狽チてきた自分の考え方、生き方が却って自身を幸せから遠ざけていることを認識するのは結構辛い。決して悪いことだけではなく、良い点もあっただけに、殊更現実を直視するのは気が重い。
それでも痛切に思うのは、自身が不幸な状態にある時、その状態を呼び込んだのは他ならぬ自分自身の頑なさが関係しているように思えてならないことだ。
この頑なさとは、心の固さでもある。もっと柔軟に考え、自らの意の染まぬ考えにも耳を傾けていたのならば、避けられたのではないか。
表題の書は、京極夏彦が新たに打ち出してみせた新釈「四ツ谷怪談」である。ここで登場する本来、悪役であるはずの伊右衛門は、ただ依怙地な善人でしかなく、お岩さえも皆の幸せを祈っての頑固な善人である。
本来ならば幸せになってもおかしくない夫婦である。それなのに不幸を呼び込んでしまったのは、双方ともにあまりに頑なであったからではないだろうか。もちろん性悪としか言いようのない上司の存在や、今風に言えば毒親ではないかと思われる父親の影響もある。
正直、あまり読後感の良い作品ではないが、いろいろと思うところはあった。どちらかといえば、私もけっこう頑固である。それを矜持にしている面は確かにあるが、内心それが欠点でもあることは薄々承知している。
人間、どんな生き方をしようと、己の責任に於いて自由である。ならば、私も今少し心を柔らかにして生きてみたほうが良いのかもしれない。
この作品を読んだ記憶はあるのですが、中身を覚えていません。
ただイライラ感だけを思い出しました。
ただ、それが作品に対するものだったのか、作者の京極夏彦に対するものだったのかが曖昧です。
京極夏彦のインタビューなどを読むといつも博覧強記ぶりにイラつくもので...
善人が時として迷惑な存在になりうることは事実ですが、京極氏の描きようは些か意地悪過ぎますから。