ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「神々の山嶺」 夢枕 獏

2007-03-26 12:44:12 | 
馬鹿と煙は高いところが好きだそうだが、何を隠そう私も大好きだ。

なかでも好きなのが、雲の海から突き出た山稜の頂上から臨める風景だ。こんな時の空は、突き抜けるように蒼く、太陽の輝きを受けて白くきらめく雲海のうねりは雄雄しい。時折雲の切れ間から覗く緑の大地が遥か下に見える。風は冷たく、その冷たさが自分が生きていることを実感させてくれる。

多くの場合、このような光景を望めるのは早朝だが、夕暮れ時も格別の味わいがある。赤い夕日が雲を赤く染め上げ、反対側では蒼く暗い星空が、次第にその暗さを増していく。太陽が遠くの山稜の下に消えた時には、星空の瞬きが背景を飾り、月の輝きがそれを圧唐キる。空気は冷たさを通り越して、そこに人が佇むことを容易には許してくれない。

樹林帯より上の山の世界は、生物の棲む世界ではない気がする。低い潅木が這い回り、岩陰にひっそりと高山植物が花を開くぐらいで、後は一面荒涼たる岩稜が広がるばかりだ。命を感じさせない世界であるがゆえに、古代より人々は山を神の住まいだと噂した。

何度となく山に登った私だが、樹林帯より上の山稜には、独特の雰囲気があることは否定しがたい。なぜだか、そこには長居してはいけない気にさせられる。だからほんの一時、山頂に歓喜の時間を過ごす事を許されているのに過ぎないのだと考えていた。だからこそ、独特の優越感に浸れる時間でもあった。

よく「下界を見下ろして」という言い方をしていた。山の上から下を見れば、当然に見下ろすことになるのは当然だ。しかし、下界という言い方には、ある種の優越感を感じていた。そこには単に重い荷物を背負って、相当な肉体的辛苦に耐えて頂上にたどり着いた者だけが持つ達成感だけではなかったと思う。なにか特別な場所に、一定の義務を果たした者だけが、その場にいることが許されるといった特殊な感情があったように思う。

ある種の選民意識とでも言ったらよいのだろうか。高い山の上に立つと、独特の雰囲気があったことだけは確かだった。標高3000メートル級の山ですらこうなのだから、ヒマラヤの8000メートル級の山々に登った時の気持ちは筆舌に尽くしがたい魅力なのだと思う。

表題の作者、夢枕獏氏は、山小屋の管理人の経験もある登山家でもあり、山を舞台にした独特の伝奇小説を数多く発表している。その彼が満を期して発表したのが表題の作品だった。チョモランマ、通称エベレストは数々の伝説を秘めた、まさに神々の山嶺だ。ヒマラヤ登山の経験のない私をも、本のなかでヒマラヤを経験させてくれた佳作だと思う。

おまけ 一回だけ山頂で恥ずかしい思いをしたことがある。九州、高千穂峰の頂上直下小屋のトイレでのことだ。和式便所でしゃがみ込み一服していると、妙に下半身が涼しい。良く見たらトイレの壁の下の窓が全開で、屈むと遠く山裾の森や道路や家々が見えた・・・覗かれたかなあ~?でも、ちょっと快感だったぞ。
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「冷たい密室と博士たち」 森 博嗣

2007-03-24 13:09:04 | 
役に立たなくてはいけないのか?

嗚呼、なるほどと思った。小学校、中学校、高校、大学と学校で学ぶことの多くは、実際の社会で役に立つことは少ない。この疑問があって、勉強をする気になれない。或いは、勉強をサボる言い訳にすることは多いと思う。

だけど表題の作者、森博嗣は登場人物に語らせる。役に立たないことがいけないのか、と。

学校で学ぶことの多くは、たしかに実社会では役立たずだと思う。連立方程式の解き方が、何の役に立とう。因数分解が出来ることが、何の役にたつのか。

本当に役に立たない。それは確かだ。

しかし、だからといって勉強する価値がないとは言えない。実社会で直接役に立たなくとも、知力の向上には役に立つ。それは考える力であり、思索する力であり、推察する力でもある。

私は仕事柄、様々な職業の人に会う。暴論かもしれないが、頭の悪い人は、稼ぎも悪い。一時的に勢いにのって大金を稼ぐことはあるが、それが続かない。これは必ずしも学歴とは一致しない。中学校すら満足に通っていない人でも、私が感心するくらい聡明な人もいる。大学を出ていても、理解に苦しむほど愚鈍な人もいる。

それでもだ、一部の例外もあろうが、全般的に鑑みれば、やはり学歴の高さは知力に比例する。もっといえば、学習能力の高さに比例する。

常に変化しつづける社会に対応するには、その状況に合わせて対処する能力が重要となる。この地球上で人間が頂点に立てたのも、学習能力の高さが決め手だと思う。

この学習能力を高める有効な手段が学校教育だ。安易に考えるべきではないと思う。実を言えば、私自身は失敗したと思う。

中卒で働くつもりだった私は、中学時代は落ちこぼれだった。クラスでなく学年で下から数えて10番以内の劣等生だった。ところが離別した父の援助で大学までいけることとなり、大慌てで勉強して、かろうじて普通科の高校へ入れた。一転して優等生を目指した私は、最初の一年でほぼ目的を達成できた。そこで慢心した。

私がやったのは、試験で点をとるための勉強に過ぎなかった。その上があることを知らなかった。気が付かなかった。元々学校なんて、社会に出るためのステップに過ぎないと考えていたので、勉強の上にある学問に気が付かなかった。

恥ずかしながら、私が学問の重要性に気が付いたのは、20代も半ばを過ぎてからだった。手遅れとは言わないが、けっこう辛かった。残念ながら、私の知力は中途半端なままになってしまい、学究の道を進むことは難しいと自覚せざる得なかった。

税理士などという専門職についたのも、ある意味妥協の産物かもしれない。やはり今でも学問をしたい欲求はある。ただ仕事と金がそれを許さない。このままだと、仕事を引退して後でないと難しいようだ。

表題のミステリーの作者、森博嗣は頭の良い人だと思う。それも私が憧れる理系タイプの頭の良さだ。こんな先生(森氏は名古屋大の先生)に学んでみたかったとつくづく思う。仕方ないので、ここしばらくはS&Mコンビのミステリー・シリーズでも楽しみますかね。
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「蜘蛛の糸」 芥川龍之介

2007-03-23 14:22:20 | 
時として人生は残酷に過ぎることがあると思う。

私は高校、大学とワンダーフォーゲル部(通称ワンゲル)で登山をしてきた。なんで山岳部に行かなかったのかというと、寒いのが嫌いで冬山登山を敬遠していたからだ。でも岩登りには、強い関心があったので、山岳部の連中とは、けっこう付き合いがあった。

大学では、登山をするクラブが集まっての遭難対策委員会にも参加していて、最後はその委員長も務めた。事件が起きたのは、私が大学を卒業した年だった。

山岳部の合宿で、北アルプスの剣岳登攀中の事故だった。山岳部の女性部員が登攀中に、不注意で小さな石を落としてしまい、その石が岩壁の下部で休憩中だった某山岳会のメンバーに当たってしまい、大きな事故となってしまった。

落石をした女性部員に非難が集まったのは致し方あるまい。問題は、山岳部の部長が必要以上に彼女を庇ったことだった。どうもプライベートでも付き合いがあったようで、公私混合との非難が出たのは必然だった。

部長とは、在学時に遭難対策委員会で何度も席を同じくし、随分と協力をお願いしたこともある仲であったので、彼の人となりを知る私も胸を痛めた。当時、長期の入院中であった私の許を、山岳部の若手が何度か訪ねてきて、状況を話してくれた。どうも山岳部のメンバーの大半は、部長に批判的であるようだ。

そうこうしているうちに、山岳部の内紛は困窮を極め、ついには休部状態にまでなってしまった。長年の伝統を誇る名門であったが、こじれた人間関係の修復は難しかったらしい。

部長を非難することは容易い。しかし、我が身に置き換えたらどうだろう?愛する女性が世間から、友人から非難を浴びている様を見て、黙っていられるだろうか。部長という立場からすれば、大いに問題のある態度ではあるが、一人の人間としてならば判らないでもない。いや、共感できる。

正直言えば、部長は頑なに過ぎた。あまり器用なほうではなかったと思う。事故を起こした当の女性は、退部したのはともかく、休部になったことへの引け目から大学から姿を消したと聞いた。部長との仲も、自然に遠のいてしまったと風の噂で耳にした。結局のところ、全てが悪いほうへ転んでしまった。

なにが悪かったのだろう。どこで間違えたのだろう。人生においては、その判断の是非が、唐突に問われる場面がある。決断の難しさ、問われる結果の無惨さには、忸怩たる思いを禁じえない。

振り返ってみて、冷静に考えてみれば、違う判断、異なる結果はあったと思う。しかし、当時の逼迫した状況がそれを許さなかったのだろう。追い詰められた精神状態で、ベストの決断は難しい。こんな時の決断は、日頃歩んできた人生の蓄積から生まれるのだろう。だからこそ、浮「。

表題の短編は、読んだことがある方も多かろうと思う。まさにギリギリの状況下における、無造作な決断が招いた結果に、思いを複雑にされたことだと思う。残酷といえば残酷な結末。でも、それもまた人生なのだろう。そして、きっと誰の人生にも訪れるや知れぬ状況なのかもしれない。

生きていくことは、何と容易く、無造作で、そして時として残酷なものなのだと思う。
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「百億の昼と千億の夜」 光瀬龍

2007-03-22 17:34:05 | 
寒いのは嫌いだ。嫌いだけれど、冬の夜空は嫌いではない。

多分、星が一番奇麗に見えるのが、冬の夜空だと思う。連日の激務を終えての家路を辿る際、ふと空を見上げると、雲の切れ間から輝く星の瞬きに、つい足を止める。こんな時は星に魅入られたが如く、立ち止まらざる得ない。

星空を見つけていると、思考はあらぬ方向へと彷徨いだす。なんのために、私は生まれてきたのだろう。なんのために存在しているのだろう。

決して満足のいく答えの見つからぬ疑問。わかっている、分っているけど悩まずにはいられない。同じような疑問に苦しんだのは私だけではあるまい。古今東西、多くの人たちが、自らの存在価値と、存在意義を知りたくて、悶々と夜を過ごしたことだろう。

この悩みに対して、答を用意したのが宗教だ。神による救済という、決して証明されえぬ万能の解決策。多くの人が、この答にすがり付いた。すがり付くことで、心の平静を得た。

私は宗教を否定したりはしない。されど、疑心の念は拭い去れない。如来による救済が50億年後と言われても、「だから何なんだ!?」と投げ捨てたくなる。まあ、それでも如来様を拝めていらっしゃる方々には十分なようなので、敢えて否定はしません。何を信じようと自由ですしね。

でも表題の作者は、敢えてその神による救いに、仏様による救済に疑問を叩き付けた。本当に救いだと言えるのか、誰のための救済なのか、と。

私は「地球に優しく」というフレーズが好きではない。「人間が住みやすい環境にしよう」が本音なのは分るが、地球自身の思いは別だと思うからだ。地球という惑星にとって、人間をはじめとした生物なんて、表面上を這い回る微生物のようなものだと思う。案外、地球さんは人間なんぞ迷惑に思ってくれれば御の字で、その存在すら意識していないかもしれない。

我々人間だって、その皮膚の上に生存する多数の微生物(菌糸やバクテリア)に思いをはせることがない(水虫はともかく)のと同様、地球だって我々人間様のことなんざ視野に入ってないと思う。いわんや、世界を創造した神々様が、なんだって人間程度を思いやらなきゃならないのか。

神を否定はしなけれど、神に依存するのが嫌な私ゆえの、ひねくれた考えかもしれません。でも、だからこそ30年以上前に読んだ、この作品が脳裏に刻まれているのだと思います。
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「黒衣の女」 スーザン・ヒル

2007-03-21 14:05:53 | 
初めて訪れた外国の都市がロンドンだった。

ハワイやグアムにも街はあるが、都市という感じは薄い。開放的な南国の雰囲気が、都会らしさを拭ってしまうからだと思う。

一方、ロンドンは子供の頃からの憧れであった。なにせシャーロック・ホームズに夢中になった私だ。霧の街ロンドンは、是非とも訪れたいと願っていたので、初めて訪れた時は感慨深いものがあった。予想に違わず、ヘンな天気の街だった。

最初の訪問は8月だったのだが、Tシャツ姿の若者もいれば、スーツをきっちり決めた紳士もいる。その隣りには、ウールのコートを着た老婦人がいる。季節感がてんでバラバラな服装に驚いた。でも、最初の一日で納得した。朝、快晴でポロシャツ一枚で快適だったのだが、昼食をとりに大英博物館を出ると、冷たい風が吹き、慌ててジャケットを着込んだ。

一度ホテルに戻り、一休みしてから夜のソーホー界隈を出歩く時には、冷たい雨が降り注いでいた。当地に駐在している友人の勧め通りに、パーカーを持参していたので、それを着て夜のロンドンを満喫した。翌日は、Tシャツ一枚でも暑い夏の陽気だった。ヘンな天気の街だと思った。

以来3回ほど訪英している。実のところ、未だにロンドンの街から離れたことがない。興味はあるのだが、大英博物館が私を放してくれない。テートギャラリーが私を引き止める。見たいところが沢山在り過ぎて、数日間の滞在では見て回れないのだ。

ここ3年ほどは仕事の都合で、連続4日以上の休みがとれず、海外旅行は控えている。もう少しして、仕事が安定したら是非とも再び訪英したいと考えている。ホームズとワトソンが石畳の道を車で走らせたロンドン郊外の街並みを観てみたい。ヘリオット先生が駆け巡った、丘陵地帯を覗いてみたい。

怪奇現象には縁の薄い私なので、ネッシーは期待できないが、表題の本の舞台となったイギリス東部の湖沼地帯も訪れてみたい。のどかな自然と、古めかしくも威厳のある古い地方都市をこの目で見てみたい。霧が全てを覆い尽くしてしまうという、スープのように濃厚な霧に包まれてみたい。

表題の本は短編ながら、霧に巻かれたような恐浮。あわせてくれるホラー小説です。恐ろしいと同時に救いようのない憐れみを禁じえない。それにしても、最後の顛末はお見事。ホッとしたところに、最後の恐怖を投げかけるのは、ホラー小説の定番ですが、私もビクッとしました。してやられた~
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