私は幼少時、米軍基地の隣町に住んでいた。近所には基地勤務のアメリカ兵の家が何軒もあり、どの家庭にも白人の子供達がいた。
私ら日本人の子供たちは、この米兵の子供たちとは大変仲が悪かった。小さな遊び場をめぐって、何度となく喧嘩を繰り返した。しょせん子供の喧嘩と侮るなかれ、素手の取っ組み合いばかりじゃなかった。
斜め向の家のアメリカ人の子供とは、家が近いだけに殊更喧嘩が絶えなかった。年は近かったと思うが、身体の大きさがふた周りは大きかった。今にして思うと、アメフトの真似だったのだろう。低い姿勢からのタックルをぶちかまされて、押し倒されてボコられた。小柄だがすばしっこかった私は、隙を観て背後に回りこみ首を絞めてやり返すのが常だった。
ある日、やりすぎて相手が泡を拭いて半失神状態に陥った。興奮した私が、クビを締め過ぎたらしい。私も慌てたが、近所の大人が駆けつけて、活を入れて助けてくれた。嫌な相手ではあったが、後味の悪い喧嘩だった。
ただ、やられた当人はえらく屈辱に思ったようで、次の日原っぱでタイマンの喧嘩になった。最初は素手での取っ組み合いだったが、じれた相手がいきなりナイフを取り出して、振り回してきた。
無鉄砲だった私は、臆することなく上着を脱いで手にまきつけ、ナイフを叩き落そうと突っ込んだ。気が付いたら、相手の手のナイフは血に染まっていた。私の左足の付け根付近から、勢いよく血が吹き出していた。
喧嘩で血を流すのは初めてではないが、これほどの出血は初めての経験だった。プロレスラーのブッチャーは、血を流すと興奮して強くなるが、私は逆に頭が醒めて、冷静になる性癖がある。
落ち着いてベルトをはずして、足の根元に強く巻きつけ止血した。相手をみると、へたり込んでいる。顔面が蒼白になっていて、なにやら喚いていた。見守っていた他の少年達も動揺しているようだった。私は白けてしまい、病院に行くと言い残して、自転車で立ち去った。
左足は使わず、右足だけで自転車を漕いだのだが、やはり出血はひどく左足は真っ赤に染まった。振り返ると舗装された道路に私の血の跡が点々と残っている。近所のおばさんが私の姿を見て、大声を上げたのは覚えている。嫌な予感がした。
痛みは感じなかったが、出血のせいかふらついた。怪我をしたときに行く医院に飛び込み、看護婦さんに呆れられ、医務室に連れ込まれた。嫌な予感は的中した。近所のおばさんが母を連れて、あたふたとやってきた。怒鳴られるかと思いきや、泣かれたのには参った。
結局、家に戻ると3日ほど監禁された。妹達が目を光らせていて、抜け出せなかったのが何より苦痛だった。警察も来たが、私は転んで怪我をしたと言い張り、喧嘩を認めなかった。子供の喧嘩に、大人を巻き込むのは卑怯だし、警察は苦手だったし、面棟Lかったからだ。
外出を許されるようになると、近所の子供達の私を見る目が変わっていた。いつも突っかかってくる白人の子供たちも、私に一目置くようになった。別に友達になったわけではないが、ツマラナイことで喧嘩をすることはなくなった。私はさして喧嘩が強いわけではないから、多分警察に黙っていたことを評価されてだと思う。
その後、その町を引っ越してしまったので、縁遠くなったが、表題の本を読んだ時真っ先に思い出したのが、当時のアメリカ人の子供たちだった。幼馴染たちが、アメリカ人の若者とつるんで悪さをしていると、噂を聞かされていた。多分、私も引っ越さなかったら、一緒につるんでいたと思う。
私は国際親善だとか、「世界の皆が仲良く」なんてフレーズは全く信じていない。信じてはいないが、どこかしらに妥協点はあると思うし、肌触れ合ってぶつかり合えば、分かり合えることもあるかもしれないと思っている。その程度で十分だとも思っている。ほんの少しでいいから、分かり合えたら幸運なことだと思う。
私ら日本人の子供たちは、この米兵の子供たちとは大変仲が悪かった。小さな遊び場をめぐって、何度となく喧嘩を繰り返した。しょせん子供の喧嘩と侮るなかれ、素手の取っ組み合いばかりじゃなかった。
斜め向の家のアメリカ人の子供とは、家が近いだけに殊更喧嘩が絶えなかった。年は近かったと思うが、身体の大きさがふた周りは大きかった。今にして思うと、アメフトの真似だったのだろう。低い姿勢からのタックルをぶちかまされて、押し倒されてボコられた。小柄だがすばしっこかった私は、隙を観て背後に回りこみ首を絞めてやり返すのが常だった。
ある日、やりすぎて相手が泡を拭いて半失神状態に陥った。興奮した私が、クビを締め過ぎたらしい。私も慌てたが、近所の大人が駆けつけて、活を入れて助けてくれた。嫌な相手ではあったが、後味の悪い喧嘩だった。
ただ、やられた当人はえらく屈辱に思ったようで、次の日原っぱでタイマンの喧嘩になった。最初は素手での取っ組み合いだったが、じれた相手がいきなりナイフを取り出して、振り回してきた。
無鉄砲だった私は、臆することなく上着を脱いで手にまきつけ、ナイフを叩き落そうと突っ込んだ。気が付いたら、相手の手のナイフは血に染まっていた。私の左足の付け根付近から、勢いよく血が吹き出していた。
喧嘩で血を流すのは初めてではないが、これほどの出血は初めての経験だった。プロレスラーのブッチャーは、血を流すと興奮して強くなるが、私は逆に頭が醒めて、冷静になる性癖がある。
落ち着いてベルトをはずして、足の根元に強く巻きつけ止血した。相手をみると、へたり込んでいる。顔面が蒼白になっていて、なにやら喚いていた。見守っていた他の少年達も動揺しているようだった。私は白けてしまい、病院に行くと言い残して、自転車で立ち去った。
左足は使わず、右足だけで自転車を漕いだのだが、やはり出血はひどく左足は真っ赤に染まった。振り返ると舗装された道路に私の血の跡が点々と残っている。近所のおばさんが私の姿を見て、大声を上げたのは覚えている。嫌な予感がした。
痛みは感じなかったが、出血のせいかふらついた。怪我をしたときに行く医院に飛び込み、看護婦さんに呆れられ、医務室に連れ込まれた。嫌な予感は的中した。近所のおばさんが母を連れて、あたふたとやってきた。怒鳴られるかと思いきや、泣かれたのには参った。
結局、家に戻ると3日ほど監禁された。妹達が目を光らせていて、抜け出せなかったのが何より苦痛だった。警察も来たが、私は転んで怪我をしたと言い張り、喧嘩を認めなかった。子供の喧嘩に、大人を巻き込むのは卑怯だし、警察は苦手だったし、面棟Lかったからだ。
外出を許されるようになると、近所の子供達の私を見る目が変わっていた。いつも突っかかってくる白人の子供たちも、私に一目置くようになった。別に友達になったわけではないが、ツマラナイことで喧嘩をすることはなくなった。私はさして喧嘩が強いわけではないから、多分警察に黙っていたことを評価されてだと思う。
その後、その町を引っ越してしまったので、縁遠くなったが、表題の本を読んだ時真っ先に思い出したのが、当時のアメリカ人の子供たちだった。幼馴染たちが、アメリカ人の若者とつるんで悪さをしていると、噂を聞かされていた。多分、私も引っ越さなかったら、一緒につるんでいたと思う。
私は国際親善だとか、「世界の皆が仲良く」なんてフレーズは全く信じていない。信じてはいないが、どこかしらに妥協点はあると思うし、肌触れ合ってぶつかり合えば、分かり合えることもあるかもしれないと思っている。その程度で十分だとも思っている。ほんの少しでいいから、分かり合えたら幸運なことだと思う。