ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「私本太平記」 吉川英治

2007-05-25 17:20:13 | 
子供の頃から、私は妙に会社員に憧れを持っていた。公務員に憧れたことはない、あくまで会社員でなくてはいけなかった。

はっきりと断言は出来ないが、それは父親のせいだと思う。幼い頃、離別した父は、仕事第一の会社人間だったと聞かされていた。それが母と離別した理由だと思い込んでいた。母の気持ちはいざ知らず、私は父のように仕事に賭ける会社員になりたいと思うようになっていた。

十代半ばの頃から、私は自分自身の資質を、大きな機械のなかの優秀な歯車たらんと見定めていた。自分がリーダータイプでないことは自覚していたが、組織のなかの優秀な構成員としてなら、それなりの価値があるだろうと考えていた。

リーダーとしては力量不足であったが、リーダーの下で采配を振るう力量なら、そこそこ自信があった。物事を的確に見定め、公平に配分し、効率的に動かすことなら、私にも出来ると思っていた。

だからこそ、就職は大企業。それも老舗ではなく、新興企業こそ実力が発揮できるはずと見込んで就職活動をした。目論見とおり就職して働きだした。営業志望だったのに、なぜかSEに配属されたのが不満だった。研修中の休日に、一人勝手に営業をして、ある全国チェーンの登山具店と代理店の仮契約の話をとってきた。それをたてに営業に配置換えしてもらった。人事からは睨まれたが、営業本部長が気に入ってくれた。人事との兼ね合いから、一度は地方支店に飛ばされたが、来年は本部で鍛えてやると口約束を貰い、意気揚々と働き出したものだった。

よもや難病でリタイアするなんて、思いもよらなかった。その後資格をとって個人事業主を目指すようになったのは、弱った身体で組織のなかで働くことは,大きなハンデとなると考えたからだ。個人事務所なら、自分のペースで働けると思い、実際それが可能な事務所で働いた。若い頃の見通しは、いったい何だったのだろう?

この先、自分が事務所のトップとしてやっていくためには、自らがリーダーシップをとって動かざる得ない。リーダーとしての力量不足をどう補い、また伸ばしていくかが現在の私の悩みどころ。だからこそ、理想のリーダー像には興味がある。

そんな私にとって、評価に迷わざる得ないのが足利尊氏だ。足利幕府の開設者であり、関東の武士の棟梁として、その力量は間違いない。にもかかわらず、私としてはあまり高い評価をしずらい人物でもある。

いったい、この人どの程度の意思をもって、リーダーを務めたのだろう。単なる飾り物ではない事は分かっている。多くの戦いに勝ち抜き、敵を唐オ、政治折衝を重ね、権力の維持のため身内すら殺す非情さをもった指導者なのだ。それなのに、なぜか指導者としての強い意志を感じないから不思議。

なんとなくだが、尊氏は担ぎ上げられた人との印象が拭い切れない。おそらくは人望のある人だったのだろう。ただ、周囲から突き動かされ、なんとはなしに動いた観がある。主体性を感じにくい人物なのだ。

吉川英治の大ファンである私だが、この太平記に関しては、妙に印象が曖昧だ。逆賊として卑下されていた尊氏の再評価という点では、高く評価している。曖昧さという点では、きわめて日本的なリーダーだったのだと思うが、尊氏個人として、何を目指し、何を求め、何を得たのか。もっと様々な視点から、尊氏は研究する必要があると考えています。
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「日本に異議あり」 佐高 信

2007-05-24 12:25:34 | 
男は度胸。

子供の頃からよく聞かされた言葉だ。言いたいことは分かるが、今は度胸ではなく度量ではないかと思っている。別に男に限らないが、人としての魅力には、器の大きさがあると思う。

学校でも会社でもそうだが、自然と人が周囲に集まる人がいる。話術が巧みだったり、スポーツが得意だったりを根拠の人気者である場合も多い。社会人ならば、仕事が出来る、頼りになる・・・といったところだろうか。

ただ単に、人を周囲に集めるだけではなく、多くの人を動かせる人がいる。人望というより、リーダーシップがある人たちだ。興味深いことに、リーダーシップという奴は正しさを根拠にしない。正論も模範解答も、リーダーの強い意向の前には影が薄い。

不思議なことに、リーダーシップという奴は、教育では育めないと思う。たしかに勉強が出来ること、仕事が出来ること、正しい知識を提示できることには、人はそれなりに敬意を表する。だが、それだけでは人はついて来ない。

私自身、省みてもリーダーとしての力量を認めた奴は、勉強やスポーツ、話術、知識を根拠に認めた訳ではない。人望といえば簡単だが、そこに居るだけで、周囲を安心させることの出来る奴だった気がする。細かい点で食い違いがあろうと、それを大きく深く飲み込める奴でないと、リーダーとして認める気にはなれなかった。私はそれを度量の深さ、器の大きさとして考えていた。

表題の本の著者、佐高信は優しい人だと思う。勉強家であり、高い倫理観を持ち、努力を惜しまない人なのだろう。だから、その主張には、なるほどと思うことは少なくない。よく調べているし、よくまとめていると思う。

それでも思う、佐高の主張が世の大勢となることはないと。

確かに主張は正しいかもしれない。その主張の背後にある優しい想いも分からないではない。しかし、その主張は一方的に過ぎる。その先の展望がない。その主張を実現できる気配がない。

つまるところ、佐高にはリーダーシップがない。だから、彼の主張に肯く人はあっても、実際にそれを実践する人は出てこない。佐高自身に、人を動かす力量に欠けていることが明らかだからだ。率直に言って、この人は狭量だと思う。人としての度量の浅さが容易に感じ取れてしまう。だからついて来る人がいない。ただ遠巻きに拍手するだけだ。

多分、佐高はリーダーシップの欠如に気がついている。器量の小ささに感づいている。でも、どうしたら良いか分からないから、今まで通り、非難し続けるだろう。悲しき批判専門家として、死ぬまで主張し続けるのだと思う。


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首切り自主事件に思うこと

2007-05-23 09:23:23 | 社会・政治・一般
嫌な事件だと思う。自分の母親を惨殺して首を切り取り、ネットカフェに立ち寄ってから、警察に自主したという。

精神に異常をきたしているとしか言うようがない。たしか社会心理学の言葉で境界線上の異常者と評していた気がする。一見して健常者に見え、行動も普通に見えるが、異常と正常の境界線がずれていて、ふとしたことを契機に犯罪を引き起こすそうだ。心理学が発達しているアメリカで報告されることが多い。もっといえば、先進国でしか見られない異常者でもある。

人間という生物は、集団を造って生きる。それもかなり大規模な集団(社会)を造る。生きていく上で、その集団(社会)における位置づけが極めて重要な問題となるのは人間に限らず、サルやイルカなどの知能の高い生物でも同様だ。

人間の場合、産業革命以降社会の役割の細分化と多層化が進み、社会における自分の位置づけが複雑化した。昔は単純だったと断言していい。農家の子供は農夫になるし、狩人の子は狩人で、貴族は貴族しかありえなかった。固定して退屈な社会かもしれないが、安定した社会でもあった。

しかし、技術の進歩が親の仕事を承継するだけでは生きていけない現実を生み出した。高度化したがゆえに、細分化した仕事が、自分の社会における位置づけを不明確なものとした。どんな仕事にも就けるはずの自由が、どの仕事に就けるか分からない不自由でもあることに気づかされた。なによりも、自分の存在が社会において、いかなる意義があるのか確信が持てなくなった。

親は子に何を教えたら良いか分からずに、学校へ押し付けてしまう。学校は、受験の知識を教えても、生きる知恵は教えてくれない。子は親への敬意を失い、甘え、すがり、やがては親にすべてを押し付ける。いつまでも子離れできない親は、それを助長してしまい、親にたかる子供を育ててしまう。

優しい笑顔を浮かべて、話せば分かる、分かり合えると嘘を教える、善良な大人たち。子供が大人になれば、嫌でもその嘘に気がつく。騙されたと憤る青年たちが、大人を尊敬しないのは必然の結果だ。

なぜ、話し合っても、分かり合えないのか?私は前提が間違っていると思う。世の中、すべてが理路整然と造られているわけではない。長年の慣習としがらみで、納得できない矛盾した仕組みが世に蔓延しているのが現実。理屈どおりに作られたわけではないのだから、いくら話し合っても、分かり合える道理が無い。

民主主義なんてものは、数が多いほうの意見を正しいと「みなして」しまう方便に過ぎない。正しさなんて、その程度のものだと思う。いくら論理的に正しい考えも、それを実行できる現実的な力がなくては、餅に描いた絵に過ぎなくなる。

何故、人を殺してはイケナイのか。それすら分からぬ頭のイイ馬鹿が蔓延している。それを必死になって、論理的に説明しようとする善人がいる。・・・馬鹿らしい、徒労感を覚える。

駄目なものは駄目!それで十分。
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「サハラに舞う羽根」 A・E・W・メースン

2007-05-22 09:28:34 | 
私は冒険小説が好きだ。でも、いつの頃からだろう、冒険小説には活劇(アクション)の場面が増えてしまった。格闘の場面であったり、自然災害の場面であったりして、いかにも冒険といった雰囲気をかもし出す。

別に間違いではないが、どうもハリウッドの映画の影響を感じることがある。誰とは言わないが、映画化を前提に書かれた冒険小説が増えた気がしている。

なぜ、このような疑問を抱いたかというと、表題の本を読んだからだ。冒険小説であることは間違いない。しかし、活劇的な場面は、ほとんどない。厳しい自然や、異民族のなかで暮らす緊張感は描かれているが、格闘の場面も、戦闘の場面もない。ある意味、退屈さを感じるかもしれない。

しかしながら、凡俗の冒険家には到底不可能な、絶望的な冒険であることは間違いない。成功報酬は、輝く財宝でもなければ、美女のキスでもない。ほんの小さな迷いから、臆病者の烙印を押された主人公の名誉回復だけが、唯一の報酬なのだ。

ひたすらに気高く、現実の栄誉を求めない。ただ、己の信念にのみ忠実に生きる厳しさ。冒険というより、求道の修練と評したくなる。だからこそ、凡百の冒険小説では得られない、誇り高き冒険者に出会える。

18世紀後半、電話も飛行機もなく、海を渡れば隔絶された世界への旅立ちとなる雰囲気は、現代の感覚からすると、退屈さを感じるほど緩やかに時が流れる。だからこそ、冒険には現代以上に厳しさと恐ろしさが付きまとう。

ハリウッド風冒険活劇に飽きたなら、古典的冒険をどうぞ。お金には代えられない、名誉を求める勇気ある冒険が待っています。
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朝青龍のしごき

2007-05-21 12:32:45 | スポーツ
以前から気になっていた。

場所前の稽古で、横綱朝青龍が若手を怪我させたと非難している報道があった。将来強くなりそうな若手を、横綱が厳しく鍛え上げるのは、角界の慣例だったはずだ。怪我させるほどの稽古は、稽古ではないとの論調もある。しかし、いかがなものか。

かつて、人気も実力も急上昇した力士がいた。横綱千代の富士を破り金星を挙げ、他の大関も破り、将来の横綱候補として名を上げた若手が、白いウルフこと益荒雄だった。ルックスも良く、筋肉質な体つきで、いかにも気の強そうな力士だった。

この若手を潰したのが、他でもない大横綱である千代の富士。稽古場で厳しく投げ飛ばし、仲の良かった板尾や逆鉾らに集中的に攻撃させたと聞く。そのせいか、怪我が多く、小結止まりで間も無く引退を止む無くされた。益荒雄だけではない。北勝鬨の弟を稽古場で怪我させたり、人気をたてに本気で向かってきた寺尾を土俵に叩き付けたりと、やりたい放題であった。

でも、私の知る限り千代の富士を非難する報道は、ほとんど無かった。今の朝青龍と、どこが違うというのか。

強い人は、必ずしも人格者であるとは限らない。むしろ、その逆であることが多い。強いってことは、己の我侭を押し通すことが出来ることでもある。ボクシングでもそうだが、強い者ほど我が侭で、暴れん坊が多かった。だいたいが、腕っ節が強く、喧嘩が強い奴を思い出してみれば、彼らが人格者であったことのほうが稀だと思えるはずだ。

私は品行方正で、人格者であったとしても弱い横綱はご免だ。暴れん坊でも、強ければ、それでいい。強さこそが、唯一の評価の基準で良い。一般社会では問題もあろうが、相撲などの格闘技の世界では、それで十分だと思う。嫌われたって良い、無視されない強さがあれば、人は十分生きていける。

ウサギの基準で、狼を評価するのは無理があると思う。
コメント (2)
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