理想的なリーダーとは、いかにあるべきか。
学生の頃、リーダー講習なるものを代々木の旧・オリンピック選手村で受けたことがある。日赤の救急医療講習や、ベテラン登山家のレクチャーなど多彩な講義内容であった。
そのなかで、理想的なリーダーとはいかにあるべきかを議論する時間があった。同年代の参加者の半数近くが、理想的なリーダーとして、相談役や信頼できる兄のようなといった親しみを感じさせるリーダー像を挙げたのには驚いた。いや、呆れた。
登山におけるリーダーは絶対的権限を持つ、パーティ全体の最高責任者でもある。メンバーの命を預かる重責を担う立場であるからこそ、その権威は絶対的なものとなる。
そりゃあ理想として、親しみやすさや、信頼感は大事だと思う。でもリーダーの資質としては二義的なものだ。むしろ、メンバーから嫌われても、パーティとして必要なことを命じる責務を持つ。好かれることを第一義にするのは間違いだ。
極論すれば、リーダーはメンバーに対して「お前、パーティのために死んでくれ」とまで言わねばならぬ立場だ。嫌われようと、厭われようと、やれねばならぬ必要な事は必ずある。それをやらねばならぬのがリーダーの義務だ。
だからといって、ただ闇雲に権限を振るうだけではメンバーは付いて来ない。リーダーの権威は、ある意味砂場の楼閣に似ていて、積み上げる努力を怠ると、あっという間に崩壊する。やはり信頼感は重要なものとなる。
では、その信頼を勝ち得るには、如何にしたら良いか。私がその一つの答えだと考えていたのが、60年代から70年代にかけて日本の山岳界をリードした山岳同志会のリーダー、小西政継だ。
先鋭的で苛烈な山岳同志会にあっても、突出したリーダーであったと思う。高き理想を掲げ、その実現のための努力を怠らぬ現実感覚の持ち主だった。無理だと嘆くメンバーを叱咤激励する一方、情報を集め、可能性を追求することを止めない。多額の資金の拠出を頼むため、各界のスポンサーを説得するため頭を下げてまわることも厭わない。
アルピニズムの本場、ヨーロッパにあっても長く難攻不落であったグランドジョラス北壁の厳冬期初登攀を目指した遠征登山(結果的には第3登、ウォーカー稜初登攀)を、リーダー小西自らが筆を執って書いたのが表題の本だ。その記録は凄まじい。ドイツ、フランス、イタリアなどの屈強なクライマー達の挑戦を跳ね除けてきた難壁であり、当初からその成功は危ぶまれていた。しかも予想外の悪天候に見舞われながらも、一人の死者も出さずに成功した。
この登攀には、若き日の植村直巳がゲスト参加している。日本山岳界屈指のクライマー植村は、このグランドジョラスでの小西のリーダーシップに驚きを隠さない。一日の登攀を追え、メンバー全員疲労困憊の状況で、メンバーに熱い飲み物を配ってまわる気配り。誰もが怖気ずく冷酷な強風のなかに一番に飛び出し、最も困難な局面で先陣を切る強靭な精神力。
遭難状態で意気喪心するメンバーを叱咤激励し、それが口先だけでないことを自らの行動で示す。この人についていけば、必ず生きて帰れると、メンバーに思わせるリーダー。それが小西政継だった。
無事下山したものの、ほとんどのメンバーが凍傷により指を失っている。一番酷い凍傷を負ったのは、常に最前線で活躍した小西であった。足の指全てと、両手の指の多くを凍傷で失っている。
一番被害が少なかったのは、ゲスト参加の植村だった。後日講演会で植村自身が述べていた。あの小西さんがリーダーであったからこそ、あの偉業は達成できたと。自分には、あのようなリーダーは無理だから、今後は単独登山を目指すつもりだと。
私は日本最強のクライマーの一人であった植村氏が単独登山を志向していたのは、彼の個人的資質によるものだと思っていたが、最強のリーダー小西政継の影響があったのかと驚いた。
もう私が山に登ることはないでしょうが、あるべきリーダーの理想像として、小西政継の名前は深く刻まれています。なお、残念ながら、小西氏は90年代にマナスル登頂後、消息不明となりました。稀有な人材を喪失したことを残念に思います。
学生の頃、リーダー講習なるものを代々木の旧・オリンピック選手村で受けたことがある。日赤の救急医療講習や、ベテラン登山家のレクチャーなど多彩な講義内容であった。
そのなかで、理想的なリーダーとはいかにあるべきかを議論する時間があった。同年代の参加者の半数近くが、理想的なリーダーとして、相談役や信頼できる兄のようなといった親しみを感じさせるリーダー像を挙げたのには驚いた。いや、呆れた。
登山におけるリーダーは絶対的権限を持つ、パーティ全体の最高責任者でもある。メンバーの命を預かる重責を担う立場であるからこそ、その権威は絶対的なものとなる。
そりゃあ理想として、親しみやすさや、信頼感は大事だと思う。でもリーダーの資質としては二義的なものだ。むしろ、メンバーから嫌われても、パーティとして必要なことを命じる責務を持つ。好かれることを第一義にするのは間違いだ。
極論すれば、リーダーはメンバーに対して「お前、パーティのために死んでくれ」とまで言わねばならぬ立場だ。嫌われようと、厭われようと、やれねばならぬ必要な事は必ずある。それをやらねばならぬのがリーダーの義務だ。
だからといって、ただ闇雲に権限を振るうだけではメンバーは付いて来ない。リーダーの権威は、ある意味砂場の楼閣に似ていて、積み上げる努力を怠ると、あっという間に崩壊する。やはり信頼感は重要なものとなる。
では、その信頼を勝ち得るには、如何にしたら良いか。私がその一つの答えだと考えていたのが、60年代から70年代にかけて日本の山岳界をリードした山岳同志会のリーダー、小西政継だ。
先鋭的で苛烈な山岳同志会にあっても、突出したリーダーであったと思う。高き理想を掲げ、その実現のための努力を怠らぬ現実感覚の持ち主だった。無理だと嘆くメンバーを叱咤激励する一方、情報を集め、可能性を追求することを止めない。多額の資金の拠出を頼むため、各界のスポンサーを説得するため頭を下げてまわることも厭わない。
アルピニズムの本場、ヨーロッパにあっても長く難攻不落であったグランドジョラス北壁の厳冬期初登攀を目指した遠征登山(結果的には第3登、ウォーカー稜初登攀)を、リーダー小西自らが筆を執って書いたのが表題の本だ。その記録は凄まじい。ドイツ、フランス、イタリアなどの屈強なクライマー達の挑戦を跳ね除けてきた難壁であり、当初からその成功は危ぶまれていた。しかも予想外の悪天候に見舞われながらも、一人の死者も出さずに成功した。
この登攀には、若き日の植村直巳がゲスト参加している。日本山岳界屈指のクライマー植村は、このグランドジョラスでの小西のリーダーシップに驚きを隠さない。一日の登攀を追え、メンバー全員疲労困憊の状況で、メンバーに熱い飲み物を配ってまわる気配り。誰もが怖気ずく冷酷な強風のなかに一番に飛び出し、最も困難な局面で先陣を切る強靭な精神力。
遭難状態で意気喪心するメンバーを叱咤激励し、それが口先だけでないことを自らの行動で示す。この人についていけば、必ず生きて帰れると、メンバーに思わせるリーダー。それが小西政継だった。
無事下山したものの、ほとんどのメンバーが凍傷により指を失っている。一番酷い凍傷を負ったのは、常に最前線で活躍した小西であった。足の指全てと、両手の指の多くを凍傷で失っている。
一番被害が少なかったのは、ゲスト参加の植村だった。後日講演会で植村自身が述べていた。あの小西さんがリーダーであったからこそ、あの偉業は達成できたと。自分には、あのようなリーダーは無理だから、今後は単独登山を目指すつもりだと。
私は日本最強のクライマーの一人であった植村氏が単独登山を志向していたのは、彼の個人的資質によるものだと思っていたが、最強のリーダー小西政継の影響があったのかと驚いた。
もう私が山に登ることはないでしょうが、あるべきリーダーの理想像として、小西政継の名前は深く刻まれています。なお、残念ながら、小西氏は90年代にマナスル登頂後、消息不明となりました。稀有な人材を喪失したことを残念に思います。