知っていることと、分っていることは違う。
私はわりと物識りだと思う。子供の頃から、百科事典を愛読書にしていたし、子供には少し早すぎる文庫本なども大量に読んでいたから、必然的にいろんな事を知っていた。
ただ、興味がない、もしくは興味が薄い事柄については、すぐに忘れてしまった。また知ってはいても、経験がないので分っていなかったこともけっこうあった。その典型が男女の秘め事に関する事柄だった。
私が読書会で知り合った青年のアパートには、私が読んだことがない本が一杯積まれていた。私は時折、この青年から「この本、読んでみろ」と薦められ、興味津々と活字の森に潜り込んだ。
左翼系というか、社会主義者お薦めの本ばかりであり、小難しい本が多かった。けれど、ここで読んだロシア文学は、当時の私を大いに興奮させた。レールモントフやショートロフは、当時の私には半分も理解できなかったはずだが、私は分った気になって自己満足の泥風呂で浮かれていた。
この青年は時たま、私に妙なことをさせた。アパートの入り口のそばに置かれた椅子に私を座らせ、ここで本を読んでいろと命じた。そして、○○君や□△さんが来たら、裏庭にまわって俺の部屋の窓にゴムボールを当ててくれと。
こんな妙なことを言い出す時は、決まって髪をクルクルにパーマしていた○○さんが傍に居た。肌の露出の多い服を着ていた○○さんは私に、大事なことをしているから邪魔されたくないのよ、と真剣な目つきで私に念を押した。
当時の私はなんの疑問も持たずに、むしろ大事なことの手伝いをしている使命感に浸っていた。今にして思うと、あの二人の逢引の手伝いをさせられていたのだろう。結婚はしてないと思うが、たしか○○君と○○さんは同棲していたはずなのだ。つまり、浮気の手伝いをやらされていたわけだ。
そのことに気がついたのは、私が大学生になってしばらくしてからだ。引っ越してから、ひさしぶりに遊びにきたら、そのアパートは取り壊されて、既に更地になっていた。この入り口でよく本を読んだものだと感慨に浸っているうちに、改めて思い出し、思い至ったわけだ。情けない話だが、私も相当にトロい。
なんか思い出を汚された気分でもあったが、既に内ゲバ騒ぎが身近であった殺伐としたあの頃、ひと目を忍んで浮気をしていた二人は、それなりに真剣だったのだと思う。真相は闇の底だが、その青年はいつのまにか失踪していて、読書会の仲間が必死で行方を追っていたことを微かに覚えている。○○君がやけに殺気立っていたことと関係があるのか、当時の私には分らなかった。
事実、当時の私は分っていなかったので、○○君に追求されても素直に知らないと答えられた。私としては、本を貸してくれる人がいなくなったことを惜しむ気持ちだけだった。
表題の作品は、そんな子供の頃の思い出を、大人になって振り返ることの切なさを綴った短編集だ。貧しさや、幼さから、当時は分らずにいたことの真実を大人になって知ってしまうことから起る、心のさざなみが見事に描きだされている。
あれから30年余、あの青年は今、どうしているのだろう。あの時、どんな気持ちで私を利用し、なぜに消え去ったのか。もう、答えは知っている気がするが、本人の口から聞いてみたいものだ。
私はわりと物識りだと思う。子供の頃から、百科事典を愛読書にしていたし、子供には少し早すぎる文庫本なども大量に読んでいたから、必然的にいろんな事を知っていた。
ただ、興味がない、もしくは興味が薄い事柄については、すぐに忘れてしまった。また知ってはいても、経験がないので分っていなかったこともけっこうあった。その典型が男女の秘め事に関する事柄だった。
私が読書会で知り合った青年のアパートには、私が読んだことがない本が一杯積まれていた。私は時折、この青年から「この本、読んでみろ」と薦められ、興味津々と活字の森に潜り込んだ。
左翼系というか、社会主義者お薦めの本ばかりであり、小難しい本が多かった。けれど、ここで読んだロシア文学は、当時の私を大いに興奮させた。レールモントフやショートロフは、当時の私には半分も理解できなかったはずだが、私は分った気になって自己満足の泥風呂で浮かれていた。
この青年は時たま、私に妙なことをさせた。アパートの入り口のそばに置かれた椅子に私を座らせ、ここで本を読んでいろと命じた。そして、○○君や□△さんが来たら、裏庭にまわって俺の部屋の窓にゴムボールを当ててくれと。
こんな妙なことを言い出す時は、決まって髪をクルクルにパーマしていた○○さんが傍に居た。肌の露出の多い服を着ていた○○さんは私に、大事なことをしているから邪魔されたくないのよ、と真剣な目つきで私に念を押した。
当時の私はなんの疑問も持たずに、むしろ大事なことの手伝いをしている使命感に浸っていた。今にして思うと、あの二人の逢引の手伝いをさせられていたのだろう。結婚はしてないと思うが、たしか○○君と○○さんは同棲していたはずなのだ。つまり、浮気の手伝いをやらされていたわけだ。
そのことに気がついたのは、私が大学生になってしばらくしてからだ。引っ越してから、ひさしぶりに遊びにきたら、そのアパートは取り壊されて、既に更地になっていた。この入り口でよく本を読んだものだと感慨に浸っているうちに、改めて思い出し、思い至ったわけだ。情けない話だが、私も相当にトロい。
なんか思い出を汚された気分でもあったが、既に内ゲバ騒ぎが身近であった殺伐としたあの頃、ひと目を忍んで浮気をしていた二人は、それなりに真剣だったのだと思う。真相は闇の底だが、その青年はいつのまにか失踪していて、読書会の仲間が必死で行方を追っていたことを微かに覚えている。○○君がやけに殺気立っていたことと関係があるのか、当時の私には分らなかった。
事実、当時の私は分っていなかったので、○○君に追求されても素直に知らないと答えられた。私としては、本を貸してくれる人がいなくなったことを惜しむ気持ちだけだった。
表題の作品は、そんな子供の頃の思い出を、大人になって振り返ることの切なさを綴った短編集だ。貧しさや、幼さから、当時は分らずにいたことの真実を大人になって知ってしまうことから起る、心のさざなみが見事に描きだされている。
あれから30年余、あの青年は今、どうしているのだろう。あの時、どんな気持ちで私を利用し、なぜに消え去ったのか。もう、答えは知っている気がするが、本人の口から聞いてみたいものだ。