ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

真夏の犬 宮本輝

2009-05-15 12:13:00 | 
知っていることと、分っていることは違う。

私はわりと物識りだと思う。子供の頃から、百科事典を愛読書にしていたし、子供には少し早すぎる文庫本なども大量に読んでいたから、必然的にいろんな事を知っていた。

ただ、興味がない、もしくは興味が薄い事柄については、すぐに忘れてしまった。また知ってはいても、経験がないので分っていなかったこともけっこうあった。その典型が男女の秘め事に関する事柄だった。

私が読書会で知り合った青年のアパートには、私が読んだことがない本が一杯積まれていた。私は時折、この青年から「この本、読んでみろ」と薦められ、興味津々と活字の森に潜り込んだ。

左翼系というか、社会主義者お薦めの本ばかりであり、小難しい本が多かった。けれど、ここで読んだロシア文学は、当時の私を大いに興奮させた。レールモントフやショートロフは、当時の私には半分も理解できなかったはずだが、私は分った気になって自己満足の泥風呂で浮かれていた。

この青年は時たま、私に妙なことをさせた。アパートの入り口のそばに置かれた椅子に私を座らせ、ここで本を読んでいろと命じた。そして、○○君や□△さんが来たら、裏庭にまわって俺の部屋の窓にゴムボールを当ててくれと。

こんな妙なことを言い出す時は、決まって髪をクルクルにパーマしていた○○さんが傍に居た。肌の露出の多い服を着ていた○○さんは私に、大事なことをしているから邪魔されたくないのよ、と真剣な目つきで私に念を押した。

当時の私はなんの疑問も持たずに、むしろ大事なことの手伝いをしている使命感に浸っていた。今にして思うと、あの二人の逢引の手伝いをさせられていたのだろう。結婚はしてないと思うが、たしか○○君と○○さんは同棲していたはずなのだ。つまり、浮気の手伝いをやらされていたわけだ。

そのことに気がついたのは、私が大学生になってしばらくしてからだ。引っ越してから、ひさしぶりに遊びにきたら、そのアパートは取り壊されて、既に更地になっていた。この入り口でよく本を読んだものだと感慨に浸っているうちに、改めて思い出し、思い至ったわけだ。情けない話だが、私も相当にトロい。

なんか思い出を汚された気分でもあったが、既に内ゲバ騒ぎが身近であった殺伐としたあの頃、ひと目を忍んで浮気をしていた二人は、それなりに真剣だったのだと思う。真相は闇の底だが、その青年はいつのまにか失踪していて、読書会の仲間が必死で行方を追っていたことを微かに覚えている。○○君がやけに殺気立っていたことと関係があるのか、当時の私には分らなかった。

事実、当時の私は分っていなかったので、○○君に追求されても素直に知らないと答えられた。私としては、本を貸してくれる人がいなくなったことを惜しむ気持ちだけだった。

表題の作品は、そんな子供の頃の思い出を、大人になって振り返ることの切なさを綴った短編集だ。貧しさや、幼さから、当時は分らずにいたことの真実を大人になって知ってしまうことから起る、心のさざなみが見事に描きだされている。

あれから30年余、あの青年は今、どうしているのだろう。あの時、どんな気持ちで私を利用し、なぜに消え去ったのか。もう、答えは知っている気がするが、本人の口から聞いてみたいものだ。
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キノの旅 時雨沢恵一

2009-05-14 17:15:00 | 
私はわがままなので、一人旅が似合っている。

好きな絵をずっと観ていたいし、歩いて街をめぐりたい。ちなみに私は半端でなく長距離長時間を歩く。おまけに好きな時に好きなだけ、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲む。私にふりまわされる同行者はたまったものではない。だから一人がいい。

とはいえ、やっぱり会話がしたいこともある。独り言を口に出すのは侘しいし、メモにとるのも億劫だ。やはり、会話のキャッチボールが欲しい。

そう思うと、表題の作中に出てくる喋る二輪車なんて代物は、実にいい旅の相棒なのだろう。

年々ライトノベルを読むのが辛くなっている。今更ドングリお目目の女の子のイラストが目を惹く学園ドラマなんざ読みたくないが、その手の作品なら最近の売れ筋らしく本屋に山積みされている。だから最近ライトノベルは、ちょっと敬遠気味だった。ただ、表題の作品はちょっと毛色が違っているようで、是非とも読んでみたかった。

イラストも控えめで感じがいいし、なにより設定がいい。口を利く二輪車で見知らぬ世界を旅する若者の旅行記といった設定は、ちょっとワクワクさせてくれる。

短編小説の形式をとっているので、饒舌に過ぎることもなく、淡々と話しが進んでいくのが気持ちイイ。それでいて、けっこう余韻を残す内容となっている。

久々の当たりかな。これだからライトノベルはバカにできない。続編も出ているようなので、読みたいリストに入れておこう。
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ACL予選報道の偏り

2009-05-13 17:02:00 | スポーツ
またかよ、朝日新聞は。

現在、サッカーではACL(アジア・チャンピオンズ・リーグ)の予選が行われている。既に日本から参加の4チームはすべて一次予選の突破を決めている。

ゴールデン・ウィーク中にも予選は行われ、鹿島アントラーズ、ガンバ大阪、名古屋グランパスは厳しい試合を勝ち抜いた。既に予選突破を決めていた川崎フロンターレは、アウェイである中国で天津のチームと消化試合をこなしたが、これは敗戦に終わった。

カンフー・サッカーと悪名高い中国のラフプレーに苦しみ、何度も乱闘が起きかけた荒れた試合であったらしい。私は試合を観てないが、報道によると選手のみならず、相手チームのコーチまでもがラフプレーに加わり、川崎の中心選手である中村憲剛選手に蹴りかかるひどい試合であったらしい。

ところがだ、朝日新聞はこの試合を結果だけ伝えて、その内容はスルーした。韓国の水原にリベンジを果たしたアントラーズを大きく取り上げる一方、同日行われた川崎と天津の試合は無視しやがった。

どうやら、朝日新聞様の考えでは、中国のチームのラフプレーを報道することは、中日友好に有害であるとお考えのご様子だ。あいかわらず、中国様にはお優しい報道姿勢であられるようだ。

これだから、朝日新聞の報道は信用できない。購買部数が減少するのも自業自得だと言わざるえない。

私は朝日、産経、日経の三紙を読み比べているが、この比較だけでも朝日の異常ぶりはよく分る。まあ、日経の中国報道もけっこう偏るが、朝日ほどひどくはない。

私はメディア、とりわけ新聞を情報加工業者だと考えています。事実をかき集めて、自分たちの意に沿う形で事実を加工して報道という形で売りさばく。それがマスコミだ。

難しい事件を分りやすく解説してくれる情報加工なら歓迎します。しかし、特定の偏った政治姿勢から、事実を歪めて報道する朝日新聞は問題が多いと思います。

余談ですが、メディアの偏りを知ろうと思ったら、自分が関心を持つ分野について、複数のメディアの記事を比較する方法が簡単だと思います。

私は中立普遍なメディアの存在はありえないと思います。どんなメディアにも立場があり、その立場にそって情報を加工するのは必然でもあります。朝日の悪いところは、いかにも中立を装って、偏った報道を垂れ流すこと。

いい加減公言して欲しい「朝日新聞は、今の日本を誹謗し、反米を掲げ、シナに肩入れするメディアです」と。

まぁ、皆さんご存知のことだとは思いますがね。
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春雷

2009-05-12 17:04:00 | 旅行
腰が抜けて、その場にへたりこんだ。

あれは高校生の頃だ。ゴールデンウィークの連休を利用して、東京近郊の丹沢へ登った。麓は既に新緑が生茂り、鳥のさえずりが喧しいほどだ。

沢筋をつめ、やがて傾斜を増すと谷あいを九十九折にのぼり、峠を目指した。稜線が木の合間から覗け、もうすぐ峠に着く手前だった。

先頭を歩く私は、いつのまにやら鳥の囀りが消えて、山が沈黙に包まれていることに気がついた。なんとなく嫌な感じがした。おまけにすぐ頭上に稜線の道があるのに、ゆるやかに斜行して登ることに飽きてきたので、少しイラついていた。

緩やかに山腹をトラバースしている整備された登山道の脇に、稜線へ直登すると思える獣道を見つけると、迷うことなく私は獣道を突き進んだ。後ろを歩く仲間から、抗議の声が上がったが、私は無視して急登を四つん這いで登り続けた。

すぐに稜線に登り詰め、後ろのメンバーがたどり着くのを待った。なにか言いたげな彼らに「近道しただけだよ」と告げて、すぐに峠に向けて稜線を歩きだした矢先だった。

突如、足元から地響きが轟いた。私の足先3メートルぐらいで稜線が崩れ、はらわたに響く低周波とともに山が崩れた。

山津波である。

この季節、山は暖かさから地盤がぬかるみ、時折崩壊することがある。遠方から眺めたことはあったが、目と鼻の先での山津波は初めての経験だった。

ゴロゴロと雷が鳴るような轟音に、飛び跳ねる巨石の砕ける音が混じる。あまりの衝撃に身体が動かない。無理に首を曲げ、崩れた先を見ると、そこには私たちが登っていた登山道があったはずの場所だ。

赤黒い土が盛り上がり、根っ子を持ち上げた当リが散乱している。数十メートルにわたり谷は崩壊して、見る影もない。登山道は文字通り寸断されていた。山津波としては規模は小さいが、その迫力は尋常ではなかった。

気がついたら、私はへたりこんで座っていた。膝に力が入らず、立ち上がることも出来ない。仲間の肩を借りて、安全な樹林帯まで下がり、そこで小休止した。全員、顔面蒼白であった。

リーダーの指示で、急遽お茶を沸かし、甘いものを食べて気持ちを落ち着かせた。皆から「なんで分ったんだ?」と訊かれたが、分ってなんかいやしない。ただ、このまま進むのが嫌だっただけだと答えた。

山はなにが起こるか分らない。事前の知識なんて、気まぐれな自然の前には、あっというまに吹き飛んでしまう。だからこそ、感覚を磨き、何事にも対応できるように心を研ぎ澄ます。

しかしながらあの時、予感も予測もなにもなかった。ただ不自然な静寂に違和感は感じたが、私はすぐ頭上に見える稜線に近道したかっただけだ。わかっていたら、へたり込むような無様な醜態はみせない。

ただ、助かっただけだ。命拾いしただけだ。

その場で今後のルートを再考し、谷筋は避けて稜線伝いに行くことが決定された。途中の山小屋に寄り、山津波を伝えておく。さすがに山小屋の主人は、あの轟音に気がつき心配していたようだ。

その後は何事もなく、無事に西丹沢を抜けて道志村へ下山した。

今はもう山へ登ることのできない身体と成り果てたが、山間を車でドライブしていると、たまにあの春雷の如く轟音を鳴り響かせた山津波を思い出す。自然の前では、人間なんてちっぽけな存在だと、つくづく思うのです。
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パッションフルーツと古本

2009-05-11 07:19:00 | 日記
あまり馴染みの無い名前だと思う。

これもやはり南国の果実で、濃い紫色の果実で、大きさは冬ミカンほどだ。なかを開けると、黄色い熟して液状化した果肉と小さな種がある。

食べるには、果実の上の部分を水平に切って、蓋をあけるようにして、スプーンで中の果肉をすくって食べる。甘さと酸っぱさのバランスがよく、あっというまに4~5個は食べられる。

わりと珍しい果実のようで、あまり売っていないと思う。実のところ、我が家でも買ったことはない。いつも伊豆七島の島のひとつから送られてきていたからだ。

私以上の読書家で、古書収集癖のあった祖父が、その蔵書の一部を時折、伊豆七島の島の学校へ寄贈していた。そのお礼として、毎年この不思議な果実が送られてきていた。

祖父の死後も、義理堅く送られてきたが、その島の校長先生が亡くなられて以降はご無沙汰だった。

ところが昨年、グアバジュースを探していた折に、銀座のドンキホーテにこのパッションフルーツのジュースも売られているのを発見した。1リットルで360円と安くはないが、グアバよりも酸味が強く、さっぱりした甘さが気持ちイイ。

そんなわけで、現在はグアバと代わる代わる買って、楽しんでいる。

先月の終わりに、母が本を古本屋に売っていた。その際、祖父の残した蔵書の一部も処分したようだが、二束三文にしかならなかったと嘆いていた。

無理もないと思う。美術書や技術書などのマニアックなものが多く、しかも大量販売されたものである以上、いくら綺麗な写真、丁寧な解説でも商品価値は低くなる。

してみると、離島に本を贈った祖父のほうが、はるかに本の処分の仕方を知っていたのだと、今にして思う。古本をよく買い漁っていた祖父は、古本の価値をよく知っていたのだろう。捨て値で処分するより、本を欲している人へ贈った祖父の所業には、あらためて感心しました。

さて、私の所有する膨大な本はどうしたものか。売れば二束三文の本ばかりであることは、私にも分る。まだまだ、当分の間は手元に置きたいが、いずれは処分せねばなるまい。あの世にもっていくことは叶わぬ以上、いまのうちから考えておくべきなのでしょうね。
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